人はその命が終わり、死ぬとそれまでの人生での自分の行いをすべて見せられることになり、どこがどのように至らなかったかなど詳細に反省させられると聞いたことがあります。
自分の行動を悔い改めるということによって、魂が進化するというような観点からすると、そうしたこともあり得るのかもしれないと考えられますね。
ただ、こうした考え方というのは、物事の善悪が存在するということが大前提としてあるということです。そうでなければ、悔い改める必要はないからです。
誰が、どのような基準を使って、その人の行いを裁くのか、それは本当に正しい解釈なのかということを考えると、どうも怪しくなってきてしまいます。
私は信心深いところがないせいかもしれませんが、昔から罪はないという考えが好きでした。そして、「奇跡のコース」を読んだときにも、全く同じことが書いてあったのでその考えが確信に変わりました。
罪がなければ、悔い改めるという必要はありません。罪ではなくて、あるとしたら単なる間違いであると思うのです。そして間違いは訂正すればいいだけです。
間違いは訂正したらそれですべてが終わります。なかったのと等しいことになります。それが許しなのです。罪というものを肯定してしまうと、それは報いとして罰を与えられたとしても、罪そのものが消えることはありません。
元々罪とはそういうものです。ただ、罪悪感を感じるのは辛いので、罰を与えられることで少しだけその罪悪感が減らせると思い込んでいるだけです。
罪を許すことはできません。許しとは間違いを訂正するということなのです。悔い改めるということでもないということです。