「人間は考える葦である」というけれど…

「人間は考える葦である」という有名な言葉が示すとおり、私たち人間の大きな特徴は考えることができるということですね。

他の動物でも非常に単純な思考なら可能かもしれませんが、人間だけが複雑な計算や理論的なことを思考する、つまり理性を持っているわけです。

そして、誰もが思考を非常に高いところに位置づけているのです。考えることができるからこそ、月に人を送り込むことができたし、近代文明や科学の発達を可能にしたと信じているからです。

けれども、よくよくその思考を使ってじっくり考えてみて欲しいことがあります。それは何かというと、思考そのものに何かを行為する能力があるか、ということです。

思考そのものが、ものを見たり、音を聞いたりすることができないことは明白です。私がコップを見ているというのは、事実ではなくて思考の内容です。

誰かがすばらしい音楽を聴いている、というのも単なる思考です。思考とは、起きていることをただただ「解説」しているに過ぎないのです。

そしてもう一つ、思考はどこからやってくるのかということを考えてみたいと思います。私たちは、何かを考えているときに、また別のことに考えが及ぶという経験を常にしています。

言ってみれば、思考の連鎖とでも表現できるかもしれません。何かの思考は別の思考からやってくるということがあるのです。

それなら、ある思考を作り出した大元の思考を作ったのは一体なんだろうかという疑問が涌いてきます。

私たちは何気なく、気楽にその大元の思考を作り出したのは自分に決まってると信じています。それなら、その自分とは何だろうかというところに行き着いてしまうのです。

実は、大元の「私」というもの自体も思考でしかありません。ということは、思考が一体どこから発生するのかということは謎なのです。

まとめると、思考がどこからやってくるかは謎であって、なおかつその思考そのものには何かを行為する力などはなく、起きていることをただ「解説」するのみだということです。

さて、困りました。あれほど、考えるということが私たち人間の優れた能力だと信じていたことが、すべてひっくり返ってしまったのですから。

では一体誰が、文明や科学を発達させて、あらゆる芸術を創造してきたのでしょうか?それは、「ただ起きた」ことだったのです。

思考でさえ、ただ起きただけだったのです。その思考を使わなければ、起きていることに意味はありません。これを信頼することができたら、私たちは本当に自由になるはずです。