「覚醒」はどこへも連れて行ってはくれない

人は人生でいろいろなことを試し、チャレンジしてその結果を手に入れて、満足するということを繰り返すこともできます。

けれども、どの満足もしばらくすると、どうしたわけかスルッと自分の手からすり抜けて行ってしまうということに気づいてしまうのです。

そうして、今度は違う種類の目標を見つけるのです。それは、本当の本質的な精神的満足はいかにしたら得られるのかということです。

その究極の境地として、覚醒することにエネルギーを注ぎ込むようになる人もいるかもしれません。さまざまな目覚め体験をすることもあるでしょうし、崇高な心境がやってくるかもしれません。

それでも、残念なことにやっぱりどんな体験をしても、それは一過性のものでしかないということに突き当たることになります。

そしてようやく、あらゆる種類の努力、目標に向かって突き進むことのばかばかしさを感じるようになってきます。

覚醒するという目標は、それを目指す自己がいるかぎり、決して達成することはできないということにも気づいてしまいます。

それは何と言う皮肉なことなんでしょう。どれほど頑張っても、その頑張る張本人を消し去ることなど不可能なことです。

誰も、自分の心から自分自身を追い出すなどという芸当をやってのけられる人などいません。それは結局、覚醒「した」人はこの世には一人もいないということを意味するのです。

ここで初心に戻って、なぜ覚醒したいという願望を持ったのかを思い出すことです。その願望の奥には、別の願望があったはずです。

それは、例えば私の場合には、肉体的な苦痛から永久に開放されたいというものだったり、心が傷つくことを恐れて、それを超越したいという願望があったのです。

こうした願望を、覚醒することによって手に入れられるという間違った思い込みをしていたということに気づいたのです。

実際、覚醒することは、どんな特別な状態へも自分を連れて行ってくれるなどということは決してないのです。

都合の悪い苦しみや痛み、恐れなどを超越しようとする代わりに、私たちには今すぐできることがあります。

それは、そうしたものに向かって何もせずに、ただそれと共に居続けるということです。物理的な言動のことを言っているのではなくて、精神的に何もしないということです。

そして、そこにこそ、本質の自己がこの自分の中でそれ自身に目覚めるというチャンスがやってくるのでしょうね。