幸せになりたいというしぶとい囚われから開放される

私たちは、どうしたら一度しかないこの人生をより幸せなものにできるのだろうか、ということをあらゆる角度から教えられて大人になります。

勿論、各人によって何が幸せなのかということについては、個人差があるでしょうけれど、いずれにしても個人が自らの幸せを目指すというところでは一致しています。

そして、その条件付けの通りに幸福を求めて、うまいことそれを手に入れられたと信じている人は、その瞬間確かに幸せなのでしょう。

あるいは、どれほど幸せを求めても、どうも不運ばかりが続いて、願ったような現実がやってこないとぼやいている不幸な人もいるでしょう。

けれども、そうした幸不幸というのは決して永続的でないことは明らかです。つまり、私たちが教え込まれたどんな形の幸せであれ、それは一時的なものに過ぎないのです。

更に言えば、幸せを求めて、不幸から逃れようとすればするほど、苦しみは大きくなるという事実は、誰からも教えてもらえなかったのです。

結局、自分が幸せかどうかということが最大の関心事になっている人生というのは、決して満たされることがないと知ることです。

幸不幸というものは、単に物語の中で起こる一過性の流れのことに過ぎないと気づくことです。そんなことに、人生を賭けてしまっていることを正直に認めることです。

自分が幸せかどうか、ではなく、自分は真の自由を知っているかどうかを探求することです。それだけが、幸不幸という物語から開放される唯一の道です。

なぜなら、自由への渇望は、自分を幸せにしようとするためのあらゆる欲望を粉砕する力を持っているからです。

それは、自由を手に入れるということではなく、真の自己こそが自由そのものだったということに気づく、奥深い人生を生きることになるのです。