不可能こそが本当の自由

人は誰でも自由を求めています。セラピストのところへいらっしゃるクライアントさんと向き合っていれば、それは明らかだと分かります。

つまり、悩みや苦しみなどを抱えて、不自由さの中でもがいているからこそ、それを何とかしたいと思ってセラピーにいらっしゃるわけです。

不自由とは、自分の意のままに、思ったようにいかないということ、自分のコントロールが思い通りに利かないことの苦しみです。

だからこそ、自由を獲得してその苦悩から開放されたいと願っているわけです。けれども、この場合の自由とは、単に不自由さとの比較の上に成り立つものだとも言えます。

人が一般的に求めている自由さとはそうしたものです。あくまでも不自由さとの相対によって表現されるようなものでしかありません。

それでは、真の自由、あるいは絶対的な自由とは一体どんなものなのでしょうか?私が自己探求を始めた目的は、その本当の自由への渇望からでした。

不自由さとの比較ではない完全なる自由とは何かというと、それはある種100%の否定的な表現の中にこそ見出されるものなのです。

つまり、完全にコントロールできないこと、あるいは完全なる不可能性において、おのずと気づくことができるもの、それが本当の自由なのです。

私たちは、自分のことや他人のこと、あるいはこの世界のことを自分の力で改善していくことができると信じきっています。

もっとましな自分になれるはずだと信じて、日々頑張っているのですから。多くの賢者たちは、そうしたコントロールを手放しなさいと昔から言ってきました。

その真意は、コントロールは不可能だということに気づくこと、そこに完全なる信頼を持つことができたなら、そのときこそ本当の自由を得ることができるといいたかったのです。

コントロールとは、そもそも思考が生み出した幻想です。ただ起きていることを解説して、そこに勝手な意味づけをすることで、行為者と行為という概念を作ったのです。

その行為者がなければ、コントロールなどというものはありません。本当のこの世界というものは、結果として完全なる自由の国なのだということです。