思考には何のパワーもない

最近天気のいい日の朝に、オフィスの近くにある井の頭公園をぶらっと散歩しているのですが、その時にふと感じたことがありました。

それは、今自分は、自分の力で歩いているように思うけれど、実は葉っぱが風にヒラヒラ舞ったり、石ころが転がるのと全く同じなのだと。

すべてはただ起きているということです。このことは、このブログでも何度となく繰り返しお話ししていることですね。

けれども、私たちは自分のことを主体者だと固く信じこんでいて、決してそれを忘れることができないのです。この地球において、人間は特別な存在だと言いたいのです。

人間にしても他の動物にしても、主体的に、あるいは自律的に生きて活動していると思い込んでしまっているのです。

残念ながら、私が歩くとか、あの人が座るとか、そうしたことは単なる思考による解説だということに気づかねばなりません。

我々の思考は、とにかく起きていることに意味づけをして、物事を主体と客体に分別せずにはいられないのです。

ですが、それはどこまでいってもただ起きていることを後付けで都合のいいように解説しているに過ぎないのです。

「私は歩く」という思考に歩くことを起こさせるパワーなどありません。これほど自明なことはないのではないでしょうか?

それは、まさしく葉っぱや石ころに自律的に動くようなパワーなどないのと同じであり、思考が「私」と呼んでいる身体にも、それを歩かせるようなコントロール能力などありません。

このことが本当に理解できると、私たちには本来これっぽっちもコントロールする力などないということが分かります。

あらゆる物事は、ただ起きているのです。それは思考では認識することができない、不可知な力によって、起こされているのです。

ほんの少しでもコントロールする力が自分にはあると信じ込むと、人は大変な重荷を背負い込むことになるのです。

重責や罪悪感は、こうしたコントロールする力を信じることからやってくるのですから。思考には何のパワーもないのです。

その代わりに、パワーの源泉に深い信頼を持つことができたら、人は救われるのです。源泉に100%明け渡すことこそ、無意味な苦悩から開放されて真の自由を知ることができるのです。