覚悟はできているだろうか?

覚醒するということは、確かにこの自分にとっては何のメリットもあったものではありません。なぜなら、覚醒するとは自分の意識から自分自身を追い出すことだからです。

賢者とか覚者と言われる人たちにしても、彼ら自身が覚醒したわけではなく、彼らは彼ら自身を追い出すことに成功したということです。

したがって、この世界に覚醒「した人」は一人もいないということになりますね。人は誰も覚醒できないのです。覚醒するためには、本人が一番邪魔だからです。

最近こうしたことが、身に沁みて分かるようになってきました。これは、原理的には不可能なことだということです。

例えて言えば、自分が人間の形をした絵だとして、その絵を消しゴムで消していくことを想像してみればいいのです。

右手に持った消しゴムで、自分の足や胴体、頭などを次々と消していったとしても、最後にはその消しゴムをつまんでいる右手そのものを消すことができないわけです。

そこだけは、絶対に自分で消すことは不可能ですね。だから、その最後の部分だけは、神がそっとその消しゴムを取り上げて、残った右手の部分さえも消してくれるということです。

奇跡のコースには、そう書いてあります。最後の最後には、神が天国へと引き上げて下さると。自分の力では無理だからですね。

さて、そこまで分かったところで、自分は本当に覚醒などしたいのでしょうか?本当の自己からこの自分を追い出すことが、それほど魅力的なことなのだろうか?

真の自己がそれ自体に目覚めるためには、この私は不要なのです。邪魔するべきではありません。本当の自分のために、ニセモノの自分は席を譲ろうではありませんか。

覚悟を決めることです。潔く、長い間奪っていた席をホンモノの主に返却するときが近づいてきたのかもしれません。