私たちは、他人の姿を見るのと同じようにして、鏡に映った自分の姿や写真に撮られた自分の姿を見ることができます。それで、自分とはこんな姿形をしているのだと知っています。
けれども、それは自分の肉体の姿であって、本当の自分そのものではないということも知っています。肉体はこの自分の所有物であり、自分の物質的な側面であると分かっています。
そして、より本当の自分に近いものとしては、自分の心、自分の精神的な側面であると感じているはずです。
それは個人としての意識であるということができますね。その意識の中で、自分という存在がいると分かっているということです。
ということは、最も自分そのものだと思われるものは、他人からも自分自身でも見ることができないということです。
それなのに、普段は誰もが互いを見合って生活しているつもりになっているのです。見ることができない個人の意識の代わりに、それぞれの身体を認識し合うことで、人同士が関係しあっていることにしているわけです。
よくよく考えてみると、これは本当に不思議なことです。自分自身が身体そのものではないと知っているのに、他人のことは身体だと思い込むことができるということです。
外側を見ている意識を、180度向きを内側に向けてそこに意識を集中してみると、これ以上明確にはできないくらいにはっきりと、自分とは見えないばかりかそこには何もないということが分かります。
それはもう個人とはいえません。なぜなら、個人としての如何なる印もないし、他と識別できるものは一つもないからです。
どんなときであっても、このことを意識し続けることができるなら、私たちは常に無防備な状態でいられるはずです。なぜなら、ここには傷つく何者もいないと分かるからです。