自己否定感を受け入れる

この世界に完璧な人というのはいません。誰でもが、すばらしい部分とその反対に否定的な部分を持ち合わせています。

けれどもそれは客観的事実ではなく、判断する人の心がそれを決めているのです。もっと言えば、人のどの部分に目が行くかということは、見る側の人の心によって決まるのです。

つまり、人の肯定的な部分に主に目が行く人は、相手のすばらしい部分に心が反応してくれるので、その人のことを好きになるでしょう。

一方で、人の否定的な部分にばかり注意が向いてしまうなら、相手のことを忌み嫌うことになってしまうのです。

そして、その人はそれが事実であり、そのように裁くことができる自分は正しいに違いないと信じることで安心しようとしているのです。

どちらが清々しい心でいられるかは、明らかですね。では、どうして人の否定的な部分に目が向いてしまうようになるのかについて、考えてみたいと思います。

それは、実はその人の心は相手を裁く前に気づかずに自分自身を裁いているということです。そのことを自分に対して隠すために、相手を否定の目で見ることになってしまうのです。

相手を否定することで、自分を裁く心を隠しておくことができるというわけです。心を癒していくどこかの時点で、このことに気づかねばなりません。

自分を激しく否定していることとしっかり向き合うことができれば、そのことを素直に認めて、惨めな自分から目を背けずにいることができるようになります。

そうやって、自己否定感を受け入れていくことができれば、相手を否定の目で見ることがなくなっていくはずです。そして、ようやく愛の目で周りを見ることができるようになっていくのですね。

無に身を委ねる その2

昨日のつづきです。

~久しぶりに、ガンガジの言葉より~

何かをする、保つ、隠す、守る、弁護する――どんなにたくさんの理性の戦略が湧き起こっても、この無限の平安は常にここにあり、それはあなたの本当の避難場所です。

実際それこそがあなたの本当の顔なのです。あなたの本当の顔を見つけるのに、長年の精神修行は必要ありません。なぜならそれはいつでもそこにあるからです。

今よりもよい人になる必要もありません。たった今、あなたがどこにいようと、自分をどういう人間だと思っていようと、あなたの本当の顔は光り輝いています。

でもそれは実は顔などではなく、性別もなく、形もありません。それはただあるがまま、輝きそのものとして輝いているだけなのです。

私たちがそもそも自分を誤ったものと同一視し、本当の顔を覆い隠してしまうのはなぜなのか、とよく聞かれます。

それに関する精神的、形而上学的な理論はいろいろありますが、私が一番納得できるのは、本当の顔を発見する強烈な喜びは、顔を隠すことによる強烈な苦しみがあって初めて可能になる、というものです。

あなたの人生において、見つかることへの欲求が起こったとしたら、見つかるときが来たのです。今こそ、無という概念から隠れるのを止めて、無の真実の中に立ち戻るときです。

その中に身を委ねるときが来たのです。そうしたとき、間違った自己認識の習慣、コントロールと身を隠すための戦略、身を隠さなければならない、という条件付けられた信念などがすべて明らかになり、あなたはただあなたであるための自由を得ます。

個体化がもたらす力は、経験としては素晴らしいものであり、それ自体には何の問題もありません。でもそれは身を隠すという経験であり、完全な全体が個人という仮面を被るという経験です。

今こそ、この完全な全体が、個人という仮面を貫いて輝くことが可能です。必要なのはただあなたにその準備ができていること、その意思を持ち、『ええ、私には準備ができています。本当に、見つかる準備ができています』と宣言することだけです。

もちろん、あなたはもう何百万年も、この人間という特定の遺伝型の様々なバージョンに隠れてきているわけですから、『いいえ、まだ、まだもうちょっと経ってから。今はまだそのときではない』と囁く大きな力が顔を出すでしょう。

でも私は言います。そう、今です。過去からのどんな圧力がそれを阻もうとしても、今こそ見つかるときです。

すると、あなたを固定の枠にはめようとする力は、あなたの帰郷の道を照らす大きなかがり火の燃料となるでしょう。

あなたの中にある過去の条件付けのすべてを、このかがり火の中に、真実の自己探求の光の中に照らし出してごらんなさい。

無に身を委ねる

~久しぶりに、ガンガジの言葉より~

これを読みながら、リラックスしてごらんなさい。

リラックスしたら、何かをしようとか、この瞬間を有意義に使おうとか、この瞬間をキープしよう、あるいは遠ざけようとする傾向が自分にないかどうか、チェックしてごらんなさい。

こうした傾向はみな、あなたがすでに感づいており、そして深いところでわかっていること、つまり、あなたは実は単にあなたという個別の肉体でもあなたという人格でもなく、それどころかまったく何者でもない、ということに対するある種の抵抗から派生しているのです。

この『何者でもない』ということを、理性は、恐ろしいことと解釈します。つまりそれは死であり、無価値であり、なくてもよいものなのです。

あなたは肉体・思考と自分を強く同一視しているので、このことは非常な恐怖となります。無であること、空であることに抵抗しようとする理性の傾向は、この恐怖が中心にあります。

それは恐怖に対する戦略です。理性は突如活発に活動を始めるかもしれません。「でも、それはいったい何を意味するの? そんなはずはない。仕事ができないじゃないか。」

今、この瞬間だけ、こうしたすべての思考を脇にどけてみてください。そしてあなたの理性を無に委ねてごらんなさい。

何者でもないこと、何もしないこと、何も持たないこと、何も手に入れないこと、何も持ち続けないこと。

今この瞬間、あなたが本当に、進んで、意識して、ただ何者でもなくあることができたなら、一瞬のうちにあなたは、無の中に内在する平安を、広がりを、限界からの自由を見つけるでしょう。

事実あなたは無であり、何者でもありません。けれどこの無こそ、充実し、完全、無限であり、あらゆる場所のあらゆるものを充たしているのです。

この無こそ、意識そのものです。それはすでに完全、完璧で、不足するものがありません。これは驚くような皮肉です。あなたがそこから逃げ出そうとしているものとあなたが探し求めているものは、同じものなのです!

少なくともあなたは、ここに存在する無限の平安の気配、あるいは残響を体験することがあるはずです。それは、いつでもここに存在しているあなたの本当のアイデンティティの残響なのです。

存在と実在の違い

モノが存在するとはどういうことなんだろう?という素朴な疑問が、子供の頃からずっとあったのですが、今ではそれが知覚だということが分かります。

つまり、自分が知覚するということが、その知覚の対象が存在するということと同等だということです。この発見は気持ちを安らかにしてくれました。

けれども、もう一つの存在が実はあることにも気づいています。それは知覚とはまったく関連しない領域のことです。

区別するために、あえて言葉を変えて、実在と呼んでもいいかもしれません。それは、対象ではなく、ただ在るのです。

そのことに私たちはずっと気づいているのですが、常に知覚が優先されてしまうために、意識に上ってこないだけなのです。

存在は思考と切り離して見ることができないのに対して、実在は明らかに思考の範囲を越えたところに在るものです。

私たちが心を静かにして、つまり思考を充分に緩めた状態においてのみ、実在を感知することができるのは、そうした理由があるのです。

実在を感知していると、すべてにOKを出し続けることしかできなくなります。なぜなら、実在は完全性であり全体性であるからです。

それこそが私たちの本質なのですね。

思考の外側

子供の頃に、数人の友達たちと何かについて自分なりの意見や思いを言い合っていたときに、ふと気づいたことがありました。

ああでもない、こうでもない、自分が正しくて、君の考えは間違っている、等々。でも結局、何も言わずに黙っているのが一番優れていると…。

あらゆる考えを考え尽くしたところで、実は何も考えずにいることこそが最強(他に言葉が見つからなかったので)なんだと思えたのです。

それこそが、「無」なんじゃないだろうかと。今になって思えば、それはただ思考の外にいること、それが「無」ということだと分かります。

「無」とは単に何もない、ということではなくて、あらゆる思考の外に出ることだったのですね。思考自体が、みずからの限界を知るということでもあります。

私たちは、思考の中でゲームを楽しんでいるに過ぎません。それを真実だと勘違いしてしまっているだけなのですね。

思考そのものは現実の中にあるのかもしれませんが、思考の中身は実在ではありません。だからこそ、子供のころに思考の外側が最強だと感じたのです。

思考の外側が「無」であるというのも、真実ではありません。「無」とは、思考が作り出した概念、観念でしかないからです。

思考の外側とは、思考が到達することのできない領域としか言いようがありません。でも、私たちは誰もがそれを知っています。

なぜなら、私たち自身の本質こそが「それ」だからです。勿論、こういったことも思考の中で繰り広げられていることではありますが、それでももっとも今にいられる思考です。

どうせ思考の中にいるのなら、過去や未来を操って自己防衛しようとする思考よりも、今この瞬間にいられる思考を楽しむほうがどれだけ心安らかでいられるか。

試してみればすぐに分かりますね。そして、本当に今この瞬間であるなら、それが思考の外である純粋な意識なのです。

思考は「問題→解決」をただ繰り返す

いつも思考をグルグルと忙しく働かせながら生活している人には、大きく分けて次の二つのタイプがあると考えられます。

一つは、自分ではあまりそのことに気づいていなくて、誰かに指摘されて初めてそうかもしれないと分かるタイプ。でも、いざ思考を緩めようと思っても、なかなかうまくできないのです。

もう一つは、一瞬にしても思考を緩めることができると知ってはいるのだけれど、そのことがどれほど大切なことなのかということには、気づけていないタイプ。

私から見ると、どちらもそれなりにやっかいなのです。両方のタイプに共通なのは、自己防衛システムによって思考が絶えず働かされているということ。

特に、後者のタイプは心理的には思考を緩めることができるのに、そんなことをいくらしても何も解決しないと信じ込んでいるので、そこから抜け出せずにいるのです。

思考の目的は、問題を見出してはそれを何とかして解決しようとすること。この「問題→解決」という手順を繰り返すことで人生の目的を達成することができると思っているのです。

けれども、思考が何かを解決することができたとしても、それは同時に次の「問題→解決」が始まることを意味しているのだと理解することです。

そうやって、思考はいつまでも思考(自己防衛)そのものを維持するために使われることになるのです。

問題は解決するのではなく、どこまでもただそれと戦わずに(思考を停止して)見ることでのみ、問題が消えていくことになるのです。

いつも忙しく思考を働かせている人は、もうそろそろいい加減にこのことに気づくことがどうしても必要ですね。

素晴らしい時代に生まれて感謝!

いつも当たり前のように身近にあるものが、突然なくなってしまったり、使えなくなってしまうと、そのありがたみがよく分かりますね。

iPad で映画を観ていたら突然ネットが切れてしまいました。大元の機器を立ち上げ直しても、どういうわけかアップロードしかできず、ダウンロードが全く出来ない状態が続いています。

ということは、ブログもアップできないわけで。仕方なく、今スマホの慣れないキーを使って、文字を打っているところなのです。

こんな時、電話回線があるというのは心強いですね。それに、今は LTE が使えるのでかなりのスピードもでるので、それほどの違和感なしにネットを使えます。

キー入力にしても Bluetooth を使ってフルキーボードと繋いでしまえば、いつものパソコンと遜色ない感じでタイプすることもできます。

本当に便利になったものですね。でも、どれほど環境が整ったところで、どんな内容を書くかは人の心が決めるのです。それだけは、いくら世の中が進化しても変わることはありませんね。

私たちは、科学が進歩しても文明が進化しても、私たち自身はそれほど変化していないということに気づいています。

言葉や習慣が変わっても、人間の心はいつの世も変わらない、そう思っています。けれども、これからの人類は、未だかつてない大きな変化を遂げようとしているのです。

それは、誰でもが自己の本質に気づくようになるということです。こんなことは人類史上なかったことです。特別な難行苦行は必要ありません。

こんな素晴らしい時代に生まれ合わせたことに感謝したいと思います。

不可能性こそ私たちの本質

小学生のときの習字の時間に、「希望」という文字を書かされたことがあったと思います。筆で描くと、何となくサマになる文字の形が好きでした。

人は誰でも心の中に希望を持っていますね。希望があるからこそ、未来へ向かって突き進もうとする意欲が生み出されるのです。

希望とは、可能性という言葉で表すこともできます。あらゆる可能性があるからこそ、希望を持つこともできるわけです。

当選する確率がほとんどゼロであっても、億に一つの可能性があるからこそ、その可能性に賭けて宝くじを買う人がいるのです。

宝くじが当たったらとイメージすると、ちょっと楽しくなったりもしますよね。それが可能性に対する希望なのです。

けれども、希望が生きる活力を生み出す反面、実は苦しみを作り出すという事実にも目を向ける必要があるのです。

可能性は私たちを喜ばせもしますが、苦しみもちゃんと置いていってくれるのです。それはまるでコインの表と裏のようなものです。

どちらか一つだけというわけには決していかないということを、忘れないことです。一方で、物事の不可能性のすばらしさにも、気づくことができるのです。

不可能性を見るとき、私たちは本当の心の平安がそこに息づいていることに触れることができるのです。

可能性とは未来であり、不可能性とは今この瞬間なのです。思考の外にあるとき、あらゆる可能性が消失してしまいます。どんな可能性もなくなるのです。

希望もありません。その不可能性こそが、私たちの本質そのものなのですね。それはどんな可能性もない、無限の穏やかさがただ広がっているだけです。

心を開くには?

心を開くためには、どうすればいいですか?という質問をされることがあります。誰だって、心を閉じたままでは生きづらいということを知っているからですね。

けれども、理性によって心を開くということが難しいということも事実としてあります。だからこそ、切実な思いとしてそうした質問をすることになるのです。

心を閉ざしているのは自己防衛のためであり、心を開くというのはその自己防衛を少なくするということにほかなりません。

とはいっても、具体的にどうすればいいかということには確かに答えてはいないですね。一つの方法として、本音を吐露するということがあります。

自分の気持ちと正面から向き合って、できるだけ自分に正直になるのです。ただし、正直になるからといって、言いたいことをただ言えばいいということでもありません。

愚痴ばかり言っている人に、愚痴は防衛していることになると伝えても、愚痴ではなくて事実を伝えているだけだと反論されることがあります。

勿論、嘘をついていると言っているわけではありません。その訴える気持ち、自分の気持ちを分かって欲しいという思いを脇へ置いてみるのです。

そうやって、ただ自分の正直な心の声に耳を傾けることによって、まるで独り言でもつぶやいているように告白するのです。

それは、誰かに訴えることとはまったく違うものです。告白するように、本音を吐露するときには、人は概ね無防備になるものです。

それが、その人の心を開くことになり、結果として周りの人たちの心を捉えることになるわけですね。

呼吸の不思議

みなさんは、自分の呼吸に意識を向けることはあるでしょうか?自分にとって、子供のころからずっと呼吸というのは不思議なものでした。小さい頃は、呼吸を止めていることが一人遊びと化していました。

自分では自覚のないままに、息を吐いた状態のままでしばらくいたあと、苦しくなっていることに気づいて息を吸うということもよくありましたし、これは実は今でも時々経験します。

高校生くらいになると、授業中に一人こっそりと呼吸を止めて、あまりに頑張り過ぎて手足が痺れてくると同時に脱力してくるところまでやったりしていたのを覚えています。

最近、毎日のように高温のサウナに入るのですが、温度計によると気温100℃の中でじっとしているわけですが、湿度が抑えられているからこそ肺は火傷をせずにいられるのですね。

そうした高温の空気を繰り返し吸っているからなのか、常温の空気を吸っているときに、なんだかとても空気がおいしい!という感覚がいつもしているのです。

空気の澄んだ大自然の中に行くと、人は誰でも深呼吸したくなりますね。空気がおいしい!という表現をするのは、まさにそういうときです。

でも自分は、わざわざ時間をかけて大自然の中へと出かけなくても、擬似的な「空気がおいしい」感を味わえているのが嬉しいです。

息を吸うと、身体に活力がみなぎってくると同時に、それは物語の中での活躍と結び付けられますし、息を吐いていくと何となく時間の外へとはずれる感じがします。

つまり、一呼吸するたびに物語の内と外を交互に体験しているのではないかと思っているのは私だけでしょうか?

呼吸とは本当に不思議なものです。もしも、息を吐いた状態でずっといられたら、きっとすぐに覚醒してしまうのではないかと密かに思っています。