トータルに見る その2

私たちはなにかと比較をしてしまいますね。自分と他人、あるいは他人と他人を比較するのです。比較をすると、惨めになることが分かっていても比較をやめられません。

なぜなら、比較すれば、たまには優越感によって喜ぶこともできるからです。そのほんの一瞬のために、比較することを止められずにいるのです。

比較するということは、物事の全体ではなくて、常に部分を見ているということですね。ある部分を見るからこそ、比較することが可能になるのです。

全体を丸ごと見るなら、どうして比較などできるでしょうか?エゴは、どうしても自分は特別な存在なのだと思いたいのです。けれども、その目論見は失敗します。

なぜなら、私たちの誰もが元々において特別な存在だからです。始めから特別なものを、特別にしようとするのですから、うまくいくはずはありません。

あなたという存在は、宇宙ができてからこれまで一度たりとも居た試しはないし、これから先どれだけ宇宙が続いたとしても、同様ににあなたの存在と同じものは生まれないのです。

だからどれほど努力したところで、特別さに磨きをかけるなどということは不可能なことなのです。あるがままで、本当に類まれな存在なのですから。あなた自身が一つの類なのです。

その一つの類を別な類とどうやって比較するというのでしょうか?あなたの本質は、決して部分ではありません。あなたがトータルな見方をするなら、このことは理解できるようになるはずです。

生をトータルに見れば、その部分である幸も不幸も気にならなくなるのです。それらは、コインの表と裏なので、どちらか一方だけを、つまり部分だけを手に入れるということはできません。

そのどちらも含めたトータルに気づけば、そこには幸不幸を超えた至福がやってきます。至福こそが静寂であり、その全体性を比べるなどとは、誰も思わないはずなのです。

トータルな見方をする

小さな子供というのは、成人よりも無力なので、より自分を守らねばならないという状態にあるのです。それが元となって、子供は白か黒かという極端な物の見方になりがちなのです。

向うから歩いてくる人が、自分にとって危険な人なのかそうではないのかと、なるべく素早く判断しなければならないのですから、そのどちらでもないという中間では困るのです。

いい人か悪い人か、安全な人か危険な人かを咄嗟に判断する必要があるわけです。だからこそ、大人のようなグレーゾーンでは生活ができないのです。

大人になっても、そうした子供のころの防衛が色濃く残ってしまうと、やはり白か黒かといった極端な見方というものをし続けることになるのです。

この世界には、まっ黒や真っ白といった極端はなくて、黒を含んだり白を含んだりといった中間の状態がすべてなのです。したがって、部分的な見方から全体的な見方へと変える必要があるのです。

例えば、あなたにとっての命の恩人がいるとします。その人にセクハラやパワハラをされたとしたら、どうするでしょうか?はっきりとした態度で、「ノー」を言えますか?

もしも言いづらいということなら、それは部分を見ていることになります。人をトータルで観る目があるなら、その人がいかに恩人であろうと、そのことといやなことをされたこととは十分に両立するということに気づくはずです。

物事をトータルに見ることができるなら、大切な人に対して、愛すると同時に憎むこともできると理解できるはずです。それは一つのマインドの中に共存できるのです。

人生に起きることも同じようにトータルに見ることができれば、幸福なときがあれば不幸なときもやってくるということを、そのままに受け止めることができるはずです。

そして、トータルな見方で生きることができれば、それだけ幸福か不幸かという極端から解放されて、そのどちらでもない、淡々とした人生へと向かうことになります。

幸せにしがみつこうともせず、不幸から逃れようともしないで、やってきたものをそのままにしておけばいいだけです。そうすれば、両極端はすぐに流れていってしまうでしょうね。

目覚めなさい!

子供がすくすくと育って大人へと成長していく過程では、沢山の知識を身に着けていくのですね。知識は、立派な大人になるためには、欠かせないものだと誰もが信じています。

常識的な社会生活をつつがなく送るためには、それなりの知識が必要となるのは当然のことです。そうした知識と気づきの違いについて書いてみようと思います。

知識の増加というものが、時間の経過とともに進んで行く水平方向の変化だとすれば、気づきとは一瞬で起こる垂直方向の変化なのです。

気づきには、原因があってその結果としての気づきがあるというような、明確な因果関係が見いだせない場合が多いものです。

実際、気づいた本人としても、なぜ今まで気づくことができないままでいたのか、その理由が皆目分からないということだってあるのです。

つまり、気づきには知識を得るような脈絡がないのです。知識を得るためには、本を読むとか、とにかく外部から情報を獲得することによって達成することが可能です。

一方、気づきは突然やってきます。それは、本人の努力の成果というわけでもありません。ある日ある時それはやってきます。そして、気づくと、それまでの自分の延長上にはいないことが分かります。

それが垂直方向の変化なのです。気づきを予想することもできません。気づきとは、神からのプレゼントなのかもしれません。

知識を得るのと同じような努力では、気づきを得ることはできません。それなら、何もできないのかというとそうでもないのです。

大切なことは、できるだけ多くの気づきを得たいという、渇望のようなものが必要なのです。その渇望が強ければ強いほど、気づきはやってきやすくなるように感じるのです。

気づきへの渇望によって、どんなものに対しても目を見開いているようになるからかもしれません。逆に気づいていない状態とは、目を背けているか、眠っているかのどちらなのです。

どれほど知識を沢山詰め込んでも、気づきがなければ、その人はグーグー眠っているようなものだということです。だからこそ、目覚めなさい!と賢者が言ってきたのですね。

私の中心も宇宙の中心

世間では、一本筋の通った人物というのが好まれますよね。その人の主張することには、常に一貫性があり、周囲の意見に左右されず、つまり心がぶれない状態であるということです。

こういうタイプの人物が、大勢の人たちのリーダーになる資格があるのかもしれませんね。けれども私は、若いころからこれと言って自分独自の考えというものを、持ったことがありませんでした。

誰かがこういうから、ああそうなのか、それは尤もだなと思うのですが、また別の賢い人が違うことを言えば、やっぱりこっちの意見の方が優れていると思ってしまうのです。

つまり、周りの人たちの意見にいつも影響されて、確固とした自分の意見というものがなかったのです。それは、学生の頃には、かなりの劣等感になっていたと思います。

社会人になって、それではみっともないという自覚があったので、自分の色を出そうと思って頑張ったあげく、そのふりをしたこともありましたが、結局長続きしませんでした。

なぜなら、自分の主張することが本当に自分にとって大切なものかどうかすら、自信がなかったのですから。結局、自分という人物は、どこまでもこれといった意見など持っていないのだと気づいたのです。

これは社会人としては失格なのです。だから、本当のことは誰にも打ち明けたことはなかったのですが、当の本人が気づいてしまっているので、もうどうしようもなかったのです。

何かについての議論をゲーム感覚で楽しむことは、ある程度はできるのですが、真に興味があるかといえば、絶対的にないというしかないのです。

したがって、この際はっきりと告白しますが、私には独自の主義なり信念といったものがかなり欠落してしまっているのです。しかもずっと以前から。

だからこそ、サラリーマンを辞めてこの仕事をするようになって、本当に楽になれたのです。それまでの偽りの社会人の仮面を、もう被る必要がなくなったからです。

そして今となっては、主義も信念もいらな~い!と明言できるようになったのです。一貫性もなく、一本の筋も通っていなくて結構。自信などなくても、楽しく生きて行くこともできるのです。

闘いから手を引けば引くほど、そうなって行かざるを得ないのです。私という人物には、頼りになる中心など必要ないということです。

なぜなら、私の真の中心はそのまま宇宙の中心に違いないと気づいたのですから。(ただし、時々、人物の中心が戻ってくることもあって、そのときには人生にうんざりしている自分を発見することになるのですが…。)

あなたの中心が宇宙の中心

昨日のブログでは、イエスでもノーでもない、どちらとも違う「受容」について書きました。このことについて、もう少し掘り下げてみたいと思います。

イエスは肯定的であり、ノーは否定的であると誰もが判断するのですが、実はどちらも何かの部分についての反応であることは明白ですね。

つまり、イエスというのはあるものへの肯定を示してはいるのですが、それはその逆のものへの否定が暗黙のうちに表現されてもいるわけです。

ノーというのもそれと全く同じことが言えます。ノーとは、あるものへの否定を示すと同時に、その裏では真逆のものへの肯定が含まれているというわけです。

結局、イエスもノーも極端を言明することになるのです。どちらかがまっ黒であれば、その真逆は真っ白であって、その極端のどちらかを支持することになるのが、イエスでもあり、またノーでもあるのです。

普段私たちが何気なくイエスとかノーと言った場合には、どちらにしても極端を標榜していることになることに、気づく必要があるのです。

一方で、あなたが物事をあるがままに受け止めるなら、つまり「受容」するならば、あなたは物事の中央へと投げられるのです。

イエスもノーも思考の中にあるのです。思考は、極端へとマインドを導くことになるのです。あなたの意見、あなたの主張、あなたの主義、こうした思考は必ずあなたを極端へと持っていくのです。

そしてあなたが思考の外へと抜け出した時、つまり無思考(受容)においてのみ物事の中道にいることができるということです。

物事の部分を受容するということが、すぐにそのまま全体性へと意識を向けることになるのです。もしもあなたが、あなたのどんなマインドの部分であっても、そのままに受け止めることを続けていくならば、あなたは必ず全体性としての自己に気づくようになるでしょうね。

それは、あなたの中心がそのまま宇宙の中心になるということです。

「服従」のイエスは危険

人の反応というのは、大抵がイエスかノーですね。たまには、そのどちらでもないということもありますが、概ねイエスかノーで答えるわけです。

そして、正直にノーが言える場合は問題がないのですが、心ではノーであるのにもかかわらず、言葉ではイエスと言ってしまう場合もあるはずです。そうしたことが続くと、精神的な問題が起こってくるのです。

人がイエスと言う場合、大きく分けて三つのケースがあると思われます。その一つは、「賛成」という気持ちで言う場合のイエスです。

このイエスの場合には、正直に相手に対して同意しているのですから、何の問題も発生することはありませんね。あなたと私は同じ考え、同じ気持ちなのですから、事は丸く収まるわけです。

その次のイエスは、「服従」する気持ちで言う場合のイエスです。この場合は、本当はノーであるという正直な気持ちを相手にも、場合によっては自分にも隠したうえで、イエスと言うのですから、そのつけはいずれやってくることになるのです。

この「服従」のイエスは、職場におけるセクハラやパワハラの被害に遭うような場合のイエスでもあり、弱い立場の子供が恐怖で親のコントロールに従う場合のイエスでもあります。

こうしたイエスは、必ず自己犠牲を積んでいき、その結果いつかそれは必ず怒りとなって、噴火することになるはずです。その場合の怒りは大変なものになるでしょう。もしも怒りが噴出しなければ、重度の鬱が待っています。

三つ目のイエスは、「受容」の気持ちで言う場合のイエスです。これは、賛成でも反対でもなく、肯定も否定もなく、勿論判断も比較もない状態でのイエスなのです。

もしもあなたが、この「受容」のイエスによって生活することができるなら、人生はきっと途方もなく素晴らしいものへと変貌するはずです。

この「受容」のイエスは、正直な「拒絶」の表現としてのノーと比べても、遥かに優れています。順番で表せば、「服従」のイエス<「賛成」のイエス<「拒絶」のノー<「受容」のイエス ということになりますかね。

そして、「受容」の場合には、イエスという言葉よりも、受け止めていますよというニュアンスの別な言葉を使うのかもしれません。

あなたは日頃、「服従」、「賛成」、「拒絶」、「受容」のどれを一番多く使って生活していますか?一度検証してみることをお勧めします。

闘いを止めること

人生を闘い続けている人がいますね。そこまでして頑張って、歯を食いしばって戦い抜かなくてもと思うのですが、本人はそうせざるを得ないのです。

ご本人にとっては、決して闘いたくないしゆったり生きていければそれに越したことはないと思うのですが、どういうわけか闘わなければならない現実が次々とやってくるのです。

毎日の生活のため、人にバカにされないため、欲しいものを勝ち取るため、惨めな想いをしないため、幸せになるためにも、闘わねばならないというのです。

けれども、実は闘えば闘うほど、周りには苦難がやってきたり、敵が近づいて来たりしてしまうのです。残念なことに、こうしたことに本人はなかなか気づかないままであることが多いのです。

困ったことがやってきて、何とかそれを解決しなければならない事態になるのは、自分が闘っているからだということには、夢にも気づかないのです。

どういうわけか、自分を嫌う人、否定する人、理不尽なことを吹っかけてくる人、つまり本人にとっての敵が次々と現れてくるのも、自分が闘い続けているからだと気づけないのです。

闘う原因はすべて周囲にあり、その結果として自分は仕方なく闘い続けているのだという、表層的な正しさにしがみついているのです。

本当は、原因と結果は真逆になっているのです。どんな理由であれ、本人が闘うことを放棄したなら、困った事態や敵は姿を消し始めるはずなのです。

もしもあなたが、自分の人生は闘いの色が強いと感じているのでしたら、それを周囲のせいにするのをひとまずやめて、できるところから闘うのを止めていくことです。

このことをただ信じるのではなく、本当かよ?と思って少しでも興味があるなら、とにかく実践してみることです。それまで闘っていたのを止めるのですから、勇気が必要になるでしょうね。

けれども、闘いを止めていくことができたら、いかにそれまでの闘いの人生が徒労に終わるものだったのかということに、深い理解を得ることができるはずです。

コンピューターの未来

私が若かりし頃、人工知能という言葉が流行ったことがありました。コンピューターがどんどん進化していくと、もしかしたら人間のような知性を持つようになるかもしれないという未来予想がありましたね。

いずれは、人間のような自律的な個人としてのコンピューターロボットが出現するかもしれないという夢ですね。私は、このような考えに当時は真っ向から反対していました。

反対というよりも、そんな戯けたことは、ただの笑い話に過ぎないと思っていたのです。どこまで進化しても、所詮コンピューターはコンピューターであって、人間を超えることなどできないという感覚です。

けれども、最近その考えがちょっと変わったのです。というよりも、人間に対する見方が大きく変化してしまったために、結果としてコンピューターとの比較の仕方も変わったのです。

私が今感じているのは、人間とコンピューターの違いは、人間には意識があるということです。コンピューターは複雑な論理を考えることはできますが、その根っこに意識がないのです。

意識がないというのを、無意識というように言いかえたとしたら、それは進化の過程においていずれは意識が芽生えるかもしれないということです。

実際、人間には意識があるものの、自分がここにいるという自覚は意識という土台の上にある思考からやってきたものなのです。そして、純粋な意識とは決して人間に固有のものではないのです。

意識とは、この宇宙の存在を支えている土台であり、真に実在するのは意識だけなのです。つまり、あらゆるものの根底には意識が在るわけです。

だから意識は、我々人間に固有のものではないのです。ただ、今のところ人間だけが意識的な部分を持つようになったというだけなのです。

とすると、たとえコンピューターであっても、根底に在る意識と繋がる可能性が絶対にないとは言い切れないのではないかと思うようになったのです。

実際、ほとんどの人は現在それほど意識的には生きてないので、その意味では動物やコンピューターとさほど違いがないのですね、残念ながら…。

罪悪感という切り札

「北風と太陽」というイソップの寓話があることは、みなさんご存じだと思います。北風と太陽のどちらが、旅人のコートを脱がすことができるかという物語ですね。

強引な力技の北風よりも、より優しい太陽の方に軍配が上がるというものです。厳しく叱るだけではなくて、たまには褒めるという飴を与えることも大事ということの例えなのかもしれません。

それでは、親が子供を意のままにコントロールしようとしたら、どのようにするのが一番効果があるでしょうか?北風の方法は、激しく叱ったり、叩いたりして恐怖でコントロールするということですね。

太陽というのは、無理やりに強いるのではなくて、子供が自発的に親の言うことを聞くようにするということです。この自発的にという場合には、実は二通りの場合があるのです。

それは、子供がそうしたくて自発的にするという場合と、もう一つは気が進まないながらも自発的にするという場合です。後者について考えてみたいのです。

子供が表面的には強制されることはないものの、仕方なく従うようにする方法、それは一体どういう方法なのだか分かりますか?

それは、親が子供の罪悪感を悪用する方法なのです。子供は、親の態度や言動などから、自分が悪いことをしてしまった、申し訳ないという気持ちにさせられると、親の言うことを聞かざるを得なくなるのです。

例えば、親が自分のせいで悲しむことになったと感じたら、子供は罪悪感から逃れるために、できるだけ親の期待に答えなければと思うようになるのです。

親が事あるごとに、子供の罪悪感に訴えるように接すると、子供は恐怖や怒りをあまり明確に感じることなしに、親の言いなりに結果としてなってしまうのです。

親としたら、これほど都合のいいことはありません。そして、子供は、親のそうした無意識の策略に気づきにくくなってしまうため、こうしたコントロールは長い間続くことになるのです。

もしもあなたが、親から罪悪感を必要以上に感じさせられたという自覚があるのなら、コントロールされてきた親への怒りにも気づくことですね。

そして、抱えている罪悪感をしっかりと正面から見て感じるということを訓練することです。それができるようになって、初めて親のコントロールから本当に解放されることになるはずです。

苦しみはない!

光明を得た人びとが共通して言ってきたことは、この世界に苦しみというものはないということです。表面的にはあたかもあるように見えるのですが、本質的にはないということです。

そのことの意味を探ってみようと思います。私たちが夜寝ている間に見る夢と、実際に生きているこの現実との違いとは何でしょうか?

勿論、夢は想像の産物であり、現実とは物理的な実在ですね。この違いに異議を唱える人はいないはずです。それでは、夢と現実に共通するものとは何でしょうか?

それはどちらも、思考によって判断解釈されたものであるということです。夢の中で、何者かに追われて、恐怖のあまり逃げ惑っているなら、それは非常に苦しいものです。

そして、朝目が覚めたときに、な~んだ夢だったのかと気づいて、その苦しみは消え去るのです。夢の中での苦しみは決してウソではないですし、目が覚めるまでは本人は本当にもがき苦しむのです。

この夢は、何から何まで思考によって作られたものですが、それが作り物だと気づくまでは苦しみはリアルなままなのです。それについて、本人を助ける方法はただ一つだけ、目を覚ましてあげることです。

一方、この物理的な現実においては、常に何かが現象として起き続けているのですが、私たちはそれを思考というフィルターを通してのみ、見ているのです。

自分という人物がここにいるという思考、そしてその自分にとって恐ろしいことが起きたという思考、この二つの組み合わせによって、私たちは苦しみを感じるのです。

何度も繰り返して言いたいのですが、思考自体が在るのは事実ですが、その思考の中身である現実についての解釈は事実ではありません。

自分は肉体だという解釈(思考)を停止するなら、自分に不都合なことが起きたという思考を停止するなら、そこにはどんな苦しみも存在しないのです。

あなたが夢から醒めたとき、そしてこの現実の中であなたが思考から脱出したとき、どちらであれ苦しみはそこにはないということです。