人生をコントロールできるという妄想

どんな素晴らしい夢でも、あるいはどれほどひどい悪夢であっても、目覚めてしまえば終わってしまいます。この現実という夢も同じです。

一生は長いと思っているのは間違いで、すぐに終わりを迎えるときがやってきます。最近特にそれを強く感じるようになってきたのは、年齢のせいかもしれません。

若い時に比べて、今の方が有利だなと思うのは、死は「いずれはやってくるけれど今は縁がないもの」という間違った思い込みが消えてきた点なのです。

死を身近に感じるようになると、その分だけ生きていることが当り前ではなくなってくるのです。肉体のあるうちに、どれだけ個人という妄想から離れることができるかが、重要なことになってきたのです。

個人としての生は、とても魅力的なのですが、その習性として都合のいいことだけを求めようとするために、苦悩してしまうのです。

快を求めれば不快が必ずやって来るし、幸せを求めれば不幸も必ずついてくるのですが、それをどうしても認めたくないのですね。

何も求めなければ、どちらもやってくることはなくなるのですが、それは個人としては余りにも魅力的な人生ではないように思えるのです。

個人としての自分は、主体としての自負があって、ある程度は人生をコントロールできると信じているのですが、ようやくそれがどれほど深い妄想かということにも気づいてきました。

そうなると、魅力的な人生からは遠ざかっていく分、あらゆる刺激から離れて行く分、まったく異次元の静寂に包まれる感覚が増えてくるのです。

それは魅惑的なものではないのですが、時空の感覚が消えて行く摩訶不思議な感覚でもあるのです。こうなると、言葉がまったく役立たずになりますね。

今ここでただ起きているだけ

私は昔から物事を分析するのが好きなのです。起きているあらゆることを、すべて何等かの原因に対する結果として見るというクセがあるのです。

原因を究明すれば、おのずとどうしてそうなったのかという結果が解明されて気持ちがいいのです。こうしたクセは今でも健在です。

そして、セラピストの仕事をするようになってからは、目には見えない人間の内面の働きに対しても、同様の分析、究明をするようになったのです。

このことは、心の癒しという観点からみて、非常に役立つものであることは明らかなのですが、その一方でどんな論理も役に立たないという見方もするようになったのです。

つまり、原因があって結果が起きるという見方は、物語の中でのみ通用するものだという視点が生まれたのです。ひとたび物語から抜けてしまうと、論理には何の力もなくなってしまうのです。

「今ここでただ起きているだけ」という、非常にシンプルな表現一つで終わってしまうのです。そこには、何で?とか、どうして?といった理由を求めることがないのです。

これを徹底てしてやっていくと、いずれは「誰が」という主体が消えて行くのです。ナニモノも意志を持っているわけではないし、どんな目的も消えて行くのです。

ただ起きつつある…、時間も空間も、勿論言葉も消えて行くのでしょう。

二元性と二元論

この世界はすべて二元性から出来ているというのは、よく言われることですね。それは、基本的には観察者という主体と非観察者という客体とに分かれているわけです。

これは人間だけでなく、動物についても言えることなのですが、人間と動物の決定的に異なるところは、動物の世界には主体と客体という感覚がないのです。

人間だけが、主体である自分が客体である他人を観察する際、その客体自体も主体として観察者となってこちらを見ているという感覚があるのです。

これは二元性ではなく、二元論になるのです。だから二元論だけが、主体である自分は同時に客体ともなるという事態を作り上げてしまったのです。

苦悩の原因はすべてこの二元論からやってくるのです。動物の世界では、自分が主体であることも、客体であることも両方ないので、心理的苦悩がないわけです。

もしも、二元性の世界と言えども本当の主体となるのは、私たちの本質である意識だけであって、「私」というエゴの主体としての存在は架空のものだと気づけば、二元論と苦悩が同時に消えていくはずです。

なぜなら、意識だけが主体であるならこの世界のどんな存在であれ、単なる客体に過ぎないということになるからです。意識である自己としての主体は、決して客体として観察されることはないのです。

すごくホッとしませんか?

「私」の頑張りは滑稽でもある

「私」という個人がいるという思いと、「ここにただ在る」という感覚には違いがあるということに気づいているでしょうか?そこには天と地ほどの違いがあります。

前者は思考の産物であり、後者は意識そのものの気づきからやってくるものです。ただし、前者の思い込みの背後には、やはりただ在るという感覚があり、それが使われているのです。

つまり、自己への気づきがなければ「私」がいるという思考を生みだすこともできないはずだからです。人間のマインドのごく一部だけでも意識的になれたために、「私」という思考も作れたということです。

こうしたことをつらつら感じていると、ここに「私」というあるまとまった個としての存在がいるという信じ込みが、何だか滑稽に思えてくるのです。

肉体を用いて、それを「私」と外の世界との境界のように思うことで、独立性を作り出したのです。そしていかにも自律的な存在のように感じさせたわけです。

けれども、自律的であるかのように見えているのはうわべだけで、その実態はどんなものとも分離することなど不可能なことなのです。

この「私」は、自分の腕が一本亡くなったとしても生きていけるのに、外側の世界だと思っている太陽や地球がなくなったら、瞬時に消える運命にあるというのに。

こうした事実を突きつけられると、一般的にそれは単なる依存関係にあるだけだということになりますね。空気がなければ生きていけないのと同じようにして。

そうやって、どんなことがあっても外側の世界は「私」自身ではないということをエゴは曲げたくないのです。その必死さがまた滑稽な気がするのです。

一枚の絵の中に描かれたモナリザは、その絵の中に描かれた背景と一つながりであることは誰でも知っています。私たちが人物に対するゲシュタルトを使わずにその絵を見るならば、そのことは明白なのです。

私たち自身も絵の中のモナリザと少しも違いはないと気づけばいいのですね。

見られることの居心地の悪さ

私たちの誰もが、様々な苦しみや悩みなどを必ず持っていますね。子供の頃は比較的単純だったかもしれませんが、大人になればそれなりに複雑な苦悩を抱えたりします。

ただしどんな苦悩であれ、そのほとんどは、人から見られる自分がいるという思い込みから派生したものだと言っても過言ではありません。

学生の頃、電車に乗ると向かいの席の人たちと対面していることがどうにも居心地が悪くて、ずっと目を閉じていたこともありました。

それで濃い色のサングラスをかけて、誰とも目が合わないようにすることで、とても楽になった記憶があるのです。そこには見られる恐怖があったということです。

自分の目を他人から見られるという恐怖があるということですね。この恐怖のせいで、生活全般がぎこちなくなったり、自然体でいられない状況が続くと具合が悪くなるのです。

目を見られると、自分の心の奥までなぜか見透かされているような気持ちになるのです。少しでも隠したい内面があれば、当然不安を感じるわけです。

不思議なことに、自分が非常に興味を持って対象を見ている時だけは、見られていることを重く感じないで済むという傾向があるのです。

恐怖よりも興味が上回るからなのかもしれません。だとすると、周りにあるものにあまり興味を持つことができなければ、人の目がいつも気になることになりますね。

解決法は…、やはり「私」という存在は思い込みに過ぎないという深い理解によるのでしょう。見られる対象としての「私」が存在しなければ、そこにはどんな恐怖も不安も発生することはないのですから。

自分の本質は意識であって、身体でもマインドでもないという揺るぎない気づきがやってくれば、人と対面したり、見られるということが不可能なことになるのですね。

マインドのアイドリングストップ

クルマのエンジンのアイドリングというのをご存じでしょうか?信号待ちなどで、停車しているときにもずっとある一定の回転数でエンジンが動いている状態のことを言うのです。

信号が青に変わったらすぐに、発車することができるようにするために、いちいちエンジンを切らずに置く機能なわけです。勿論最初にエンジンをかけたときにも、このアイドリング状態から始まるわけです。

最近では、できるだけ燃費を良くしようということで、停車時に完全にエンジンを停止させてしまう機能(アイドリングストップなどと呼ぶ)が付いたクルマが増えてきていますね。

その瞬間、エンジンが止まってしまうことで、突然のように車内が静寂に包まれたような感じになるのです。みなさんも経験があるのではないでしょうか?

あの感覚って、瞑想に近いものがあるのです。実際、私たちのマインドというのはクルマと同じようにして、常に思考というエンジンが回転しているのです。

そして、自分は特別何も考えていないと自覚していたとしても、マインド内の思考はアイドリング状態のようにして、ある程度はずっと働き続けているのです。

その度合いが強ければそれだけ、瞑想をすることが難しくなってしまうのです。だから日ごろから、自分のマインドのアイドリング状態に気づいておく必要があるのです。

その気づきが明確になっていけば、マインドのアイドリングストップも実現することが可能になっていくのです。その時に、あの静寂がやってきてくれるはずです。それこそが、瞑想状態なのですね。

 

探究に必要となる誠実さ

信じることはとてもたやすいし、その逆で信じないことも同程度にたやすいのです。信じるか信じないかは、まったく同じコインの表と裏のようなものです。

どちらも、どれほどの探究心も含まれていないという意味において、両者は同じもの。真実を本当に知りたいというのなら、どちらからも離れる必要があります。

それには、まず自分が本当に知っていることと、外部から聞いた知識とを明確に判別することから始めることです。その両者は天と地ほどの違いがあるからです。

知識とは、信じるか信じないかの範疇に過ぎません。例えば、地球は丸いというのは知識であって、本当に知っているわけではないということ。

地球が丸いという情報があるということは知っているけれど、その内容の真偽は信じているに過ぎないのです。そのことに気づくことです。

そうすると、自分はほとんど何も実は知らないということにぶつかるのです。そうなったらチャンス到来です。そこから本当の探究を開始できるからです。

それこそが、探究に必要となるある種の誠実さだと言えるのです。知るということは、それ自身になるということしか残されていないのです。

だから真実を知りたいのなら、自らが真実であることに気づく以外にはないということですね。

いつも在るもの

朝目が覚めてから、夜寝るまでずっと変わらずに在るもの、道を歩いているときも、食事をしているときも、誰かと会話しているときも、それは常にそのままであり続けている。

それに気づくことです。あまりにも当たり前過ぎて見逃してしまうのですが、でも立ち止まってそれが常に在ることを確認すればいいのです。

それは、昨日も在ったし、一か月前にも、一年、十年前にも、ずっと在ったのです。赤ちゃんのときには、気づけなかったけれど、幼い頃は気づけなかったけれど…。

いつからか、それはずっと在ったのです。何か嬉しいことがあって大喜びしているときも、辛く苦しいことがあって落胆しているときも、変わらずに在るもの。

それはただ、その瞬間瞬間を見つめているのです。こうして書いてくると、いつもよりその存在がはっきりしてくる感じがします。

それは、「私」のことも見つめているし、それ以外のモノもすべてを見つめているのです。それはどんなものにも影響を受けることなく、ただ在り続けるのです。

できる限り、そのことに気づいているようにできるといいですね。

鏡の中の自分は、外側の世界の住人

以前にも何度か書いたことがあるのですが、鏡を見ない生活になってからもうどのくらいが経っているのか分かりませんが、ほとんど支障はないのです。

勿論、風呂上がりにドライヤーで髪を乾かすときには、鏡を使うのですが、そのときも自分を見るというよりは、髪型を整えるために鏡を使うだけなのです。

したがって、それ以外は自分の外見を垣間見ることもないという毎日を送っています。そんな中、ごくたまに服を買おうとしてお店の試着室に入って、鏡に映る自分をまじまじ見ることもあるのです。

そのときのちょっとしたショックは、あまり人には言えないものです。というのも、自分はこんなはずではなかったという驚きと落胆?が押し寄せてくるからです。「あいつ、絶対自分じゃない!」という思い。

そのために、服自体を気に入っていたとしても、それを買う気持ちが一気に失せてしまい、結局は手ぶらで帰って来るということが本当にあるのです。

自分の外見を一日に何度かチェックしていた頃のまま、自分の外見への勝手なイメージが止まってしまっているということなのでしょうね。

ということは、10代とか20代の頃のままのイメージが残っているということです。そのイメージを密かに抱きかかえたまま生活しているのですから、結構笑えます。

で、本当に思うのは、鏡の中の自分は外側の世界に生きている自分だということ。それがどれほど年老いたとしても、真実の自己は不変だということ。

残存しているイメージすら無縁である透明の自己こそが、本当の自分の姿なのだということが分かって、とても安心しているのです。

立ち止まり現象

先日観ていたあるテレビのバラエティ番組で、子供に深い質問をされたら大人たちはどうするか?というのをやっていました。

その子供は、自由研究で大人からいろいろな事を聞いているのだという前ふりで、「人生ってなんですか?」という質問をするのです。

最初、かわいい小学生の男の子の無邪気な質問が出るのだろうと高を括っていた大人たちが、びっくりしてそれでもある程度は真面目に答えているのが面白かったのです。

ある人は、人生は「罰ゲーム」だと言うし、別の人は、「台風」だという人もいました。誰もが自分なりの言葉で、人生とは?という質問に答えるのです。

そのときに、それまでとは異なる、一種の立ち止まり現象が起きているのを見ました。子供に急を突かれて、どう答えればいいかと迷って、立ち止まるのです。

この立ち止まるという感覚は、とても大切なもので、瞑想にも通じるものなのですね。だから同じことを、自分自身に対してやればいいのです。

ただ漫然と生きているのではなく、時々立ち止まって、できるだけ難しい質問を自分にするのです。難しければ、それだけ思考は停止せざるを得なくなるからです。

そのとき、身体もできるだけ停止させるのがいいでしょうね。というよりは、マインドを立ち止まらせると、身体もそれに伴って自動的に止まるはずです。