プラクティス #10

誰もが同じようにして持っているある感覚、それは「自分がいる」という感覚ですね。その自分にまつわるあらゆる情報を脇へ置いてみると、どうなるでしょう?

そのためには、一時的に記憶情報にアクセスするのをやめる必要があります。記憶を使わずに、それでも「自分がいる」という感覚は変わらずに残るでしょうか?

そのときの感覚をよく感じてみれば分かるのですが、誰だか分からないけれど慣れ親しんだ自己が、ただここに在るという感覚に変化するのです。

どんな自分かは一旦分からなくなるけれど、それでも今ここにただ在るという感覚だけが残るのです。そして、きっとそれは誰にとっても同じなのでしょう。

それこそが、意識なのです。自分にまつわる記憶情報にアクセスしないでいると、思考が自然と静かになってしまいます。

その結果、意識だけが顕われて、自己に気づいている状態になるというわけです。記憶を使わずにいる、このような実践を続けていると、次第に思考と意識の違いが明確になるはずです。

完全と全一の違い

エゴは常により完全なものを求めているのです。不完全さを容認することをせずに、より強くより高く完璧であることで安心を得ようとするのです。

完全とは存在しないもの、今この瞬間には決してあり得ないもの。それはつまり、完全とは未来を意味しているのですね。

完全であろうとすることは、エゴの神経症的な面を顕しています。その一方で、全一であろうとすることは可能なことなのです。

そして全一とは今この瞬間のこと。いつでも私たちは、全一であることができるのです。防衛から離れて無防備になり、他人の評価を気にすることなく生きるのです。

幼い子供は、笑うときも泣くときも、怒るときも全身全霊ですることができます。それが無防備さの姿であり、それこそが全一であることなのです。

マインドが活躍していれば、必ずや分離した一部でしか生きることができません。なぜなら、マインド自体が分裂しているものだからです。

完全を求めるのもマインドだし、全一を不可能にするのもマインドだということです。マインドから離れることができるなら、完全を求めずに全一に生きることになるのです。

自己同一化がはずれれば、「私」は消える

瞑想とは何ですか?と聞かれたら、何通りもの答え方があるように思うのですが、例えば、「自己同一化がはずれること」と表現することもできるのです。

もしも、自己同一化がはずれてしまえば、「私」は○○だ、ということができなくなるのですから、「私」というエゴが同一化によって成り立っているということが明白になるのです。

仮に、身体がなければ私たちはどのようにして「私」を生み出すことができたでしょうか?きっとできなかったに違いないのです。

幼児の頃に、常に身近に自分の身体があったからこそ、それを自己同一化することによって、この「私」というものをでっち上げることができたのです。

その後は、マインドへの自己同一化によって、「私」を成長させたのです。同一化がはずれたならば、身体の痛み、心の苦しみから解放されてしまうでしょうね。

なぜなら、エゴは「私」の身体が痛い、「私」のマインドが苦しいというようにしか、受け取ることができないからこそ、そこから救われることはないのです。

同一化がなくなれば、ただそこに身体の痛みがある、マインドの苦しみがあるというように、ただあるがままをそのままに見るだけになるのです。

本当の救いとは、自己同化がはずれて、「私」が不在であることに気づくことしかないということですね。瞑想とは、その状態になることを意味するのです。

輪廻転生の仕組み

 

「輪廻はあるけれど魂というものはない」ということを、このブログでも何度か書いたことがあります。輪廻転生とは、死んだ人が生まれ変わるということですが、それは間違った考え方なのです。

もう少し違う表現を使えば、「私」というものは生まれないのです。「私」の願望、欲望だけがまた生まれてくるということです。

なぜなら、「私」というものは実在しないのですから。誰かが、願望や欲望を残したまま死んでいくと、その思い、そのエネルギーは肉体を失って宙ぶらりんになるのです。

そして、すぐに別の肉体を求めて、そのエネルギーに近い受精卵の中へと入っていくのです。同じような願望、欲望を持った両親の元へと引き寄せられるのです。

そうやって、また別の「私」が生後2年くらいして発生し、その欲望を受け継いだ人生を始めるというわけです。これが、輪廻転生の仕組みです。

新しい「私」にとっては、無意識層の奥に別の「私」の記憶が入っているため、それを思い出せば自分の前世だと信じるというわけです。

けれども、私たちはどうしても自分の中にいる「私」が自分自身に違いないと信じているため、「私」そのものが転生するのだと感じてしまうのです。

あなたの中にいる「私」はあなたではありません。単なる思考の産物であるため、生まれたり死ぬということもできないのですね。

座禅はエゴの敵

毎日忙しく過ごしている人にとって、たまの休暇に何もせずにいる時間がとれるなら、天国のように感じてしまうかもしれませんね。

普段から寝不足が続いている人であれば、一度時間を気にせずに泥のようにぐっすり眠ることができたら、どんなにいいだろうと思うはずです。

けれどもその一方で、何もやることがなくなってしまうと、それはそれで退屈し出すのです。そして本当に何もせずにいるなら、それは大きな苦痛に感じるようになるのです。

「私」というエゴは、何かをせずにはいられない習性を持っているのです。重い病気で何もすることができないならともかく、そうでなければ何もしないでいることは拷問なのです。

そんな私たちにとって、一定時間ごとにお腹が空くのはとても好都合なのです。なぜなら、食事をするという作業を必然的にすることになるのですから。

朝になれば起きて、着替えて、支度をして仕事に出かけ、夜になれば、寝る準備をして、睡眠の中へと入っていくのですから、一日のサイクルをこなして行くだけで、やることはあるのです。

時々部屋の中にある時計を見るのは、次にやることをどこかで想定している証拠ですね。もしも、何もせずにいるなら、時計は必要なくなってしまいます。

身体を動かすということをしなくとも、人間はマインドを使って考えるという作業をすることで、「私」にとっての退屈という拷問から抜けることができるのです。

だから思考は、「私」というエゴの宝物なのです。身体も動かさず、思考も動かさずにいることができるなら、そのときにはエゴは危機的状態になるはずです。

それが禅で言うところの座禅なのでしょうね。何もせずにいるなら、いずれはエゴは消えていくことになるはずです。

向上心はエゴのもの

先日このブログで、ピアノで是非弾きたいと思う曲があると、頑張って練習することがかつてあったということを書きました。昔の話しですが…。

勿論、練習すれば弾けるようになる可能性のある曲に限るのですが、そうしてまあまあ弾けるようになったなと思うと、弾くのをやめてしまうのです。

その理由を少し考えてみたのですが、最初はただ単純にその曲を弾きたいと願って練習を始めるのですが、気が付くと、その曲が弾けるような「自分になりたい」にすり替わっていたように思うのです。

しっかり自分を見つめないでいると、この二つの違いに気づくことはなかったかもしれません。そして、私たちはどうも学校や社会から後者の方を奨励されてきたようなのです。

つまり、練習する原動力として、ただ弾きたいという単純なものよりも、弾けるようになったより優秀な自分を目指していくことにこそ価値があるのだという教育です。

これこそがエゴの発想ですね。この社会はエゴが作ったものなので、よりよい人物、より有能な自分になることが素晴らしいことだと教えるのは当然のこと。

それが裏を返せば、今のままの自分に甘んじていてはいけないという向上心へと繋がることになるのです。それが悪いというわけではありません。

ただ、それだけで生きていくなら、決して心から満たされるということがないということにも、気づくことが大切なことなのですね。

一笑に付すのは勿体ない

osho は問いかけます。

『自分のプロセスを見守ってごらん。そうすれば、感じられるだろう。

今日、お腹が空いたら、ただ見守ることだ。

お腹を空かせた人がほんとうにいるのか、

それとも空腹がただあるだけなのか?』

 

最初は、え?っと思うかもしれませんが、これは放ってはおけません。実際に検証してみる価値があると私には思えるのです。

そして、ただじっとして身体を動かさずに、身体からやってくる様々な感覚を感じていると、空腹に限らずただ何等かの感覚がそこにあるだけだと気づくのです。

けれども、私の場合は身体を動かしてしまうと、その感覚を感じている自分が身体の中にいるという根強い思いがやってきてしまうのです。

これは、根強いとはいえ、単なる思いグセなのですね。ということは、osho が言うように、そこにただ感覚があるというのが、どうも真実のようです。

問いかけられたことを、バカバカしいと一笑に付すのは簡単ですが、それではせっかくの気づきのチャンスを棒に振ることになるかもしれません。

本能的恐怖と心理的恐怖

私たちが日頃感じている恐怖感というのは、本能的なものと心理的なものの二種類があるのです。本能的恐怖は、自我を持たない赤ちゃんや動物にもあるものです。

一方、心理的恐怖はマインドが作り出す恐怖のことです。つまり、物理的に危険な状態ではないかもしれないのに、マインドが勝手に恐怖心を生み出すことができるということ。

例えば、東京タワーの展望フロアの一部がガラス張りになっているところがあるのですが、そこを歩いても他の床の部分と同程度に安全であることは理解しているはずなのです。

それでも、下を見ればマインドが瞬時に危険だと判断を下すために、いきなり恐怖心でそこを歩くことができなくなったりするわけです。

勿論、心理的恐怖も生きる上ではとても必要なものではあるのですが、もしもそれが人一倍大きくて生き辛いと感じているのなら、ある程度は克服できるはずです。

先ほどの例で言えば、恐怖を充分に感じながら、繰り返しガラス張りの上を歩くということを自分に体験させてあげるのです。

そうすると、マインドはその経験を通して危険だという判断を取りやめるようになるため、恐怖を感じることが小さくなっていくのです。

幼い頃に、親に対して抱いていた恐怖心がマインドの奥底に残っていると、そのマインドは大人になって、親を連想させる相手に対して、不要な恐怖心を生み出すのです。

そのような場合にも、その相手から逃げずに、相手に対する恐怖を味わいながらも無事でいることで、徐々に心理的恐怖が小さくなっていくはずなのです。

真実ほどの皮肉はない

私は、昔から一芸に秀でた人のことを羨ましいと思っていました。特に、楽器の演奏が上手にできるのがとても羨ましかったのです。

小さい頃にオルガンを習っていて、大人になってから弾きたい曲が顕われると、何とか弾けるようになりたいと思って結構熱心に練習するのです。

といっても、勿論ド素人のレベルなのですが…。それで、ある程度弾けるようになると、それまで何百回?も練習したせいもあってか、飽きてしまうのです。

せっかく弾けるようになったのに、飽きてしばらく弾かずにいると、もう弾けなくなっていて、それで嫌気がさして弾くこと自体をやめてしまうというクセがありました。

だから物事を究めるというところまでやりきったという試しがないのです。それはきっと、本当にはピアノを弾くということに興味がなかったのだと思うのです。

少しの興味は確かにあったし、気に入った曲を弾けるようになったらさぞ気持ちいいだろうという思いで、頑張って練習に励んだということです。

だから、自分なりに目的を達成できたと思った瞬間に、弾くことへのエネルギーが薄れてしまうということなのでしょうね。本当に好きなことであれば、また別の曲を弾こうと思うだろうし…。

で、この年齢になってようやく飽きないと感じることに出会えたのです。それが真実なのです。真実は究めようとすれば、必ず逃げていくと気付けたことも大きかったのです。

究めようとすることもなく、さりとて飽きることも決してなく、自分自身を超えた知覚することもできない何か、それが真実なのです。

真実は、目的ではないので自分が成就したり達成するものではないのです。その自分が消えることでしか、真実はやってこないという、これ以上の逆説、皮肉はありませんね。

私たち自身が「命」

 

昨日が誕生日だったのですが、この生まれた日というのは単に母親の胎内から肉体が出てきた日ということであって、まだそのときには自分はいませんでした。

だから、本当の「私」の誕生日ではないということですね。「私」の誕生は生後2~3年経ってから、しかも徐々に生まれていくものなので、この日と限定することは難しいのです。

人によっては、確かにあの日あの時に、それまでとは違う「私」の感覚がやってきたと記憶している場合があるかもしれませんが、それはきっと稀なことだと思います。

多くの場合、気が付いたら「私」がいたというのが実情でしょう。また、厳密に言えば胎内で卵子が受精したときが本当の誕生日だと言えるかもしれません。

そのときには、ほぼ同時に死んだ誰かのエネルギーも入り込んでくるのですから、そのエネルギーにとってみれば、その瞬間が新しいこの世界でのスタートとも言えるわけです。

そのときにこそ、新しい命が芽生えたと思ってもいいのかもしれません。私たちは、命を授かるとか、命を奪われると言った表現をしますね。

けれども真実に目を向けるなら、私たち自身が命そのものだということです。勿論永遠の命です。だから、命を吹き込まれたのは、単に私たちの姿をしたものだったのです。

命という我々が、この地上であらゆる体験をするために、植物や動物や人間の中へと投げ込まれたと考える方が真実に近いのではないかと思うのです。