エゴは至福を感じられない

人生で遭遇する様々な感情、あるいは気持ち、幸不幸、達成感、万能感、罪悪感、否定感、絶望感、憂鬱感、それこそ挙げだしたらきりがありません。

こうしたあらゆる内面的なものはすべてがエゴの範疇にあるのです。つまり、エゴがあるからこそそうした感情や感覚、気持ちになることができるのです。

そんなエゴが、唯一知らないもの、それが至福感なのですね。なぜなら、至福感だけは、エゴの不在のときにしかやってこないからです。

勿論狡猾で抜け目のないエゴは、自分が不在のときにやってきた至福感についても、エゴが戻ってきたときに自分の体験だとするのです。

だからエゴでも至福感を体験できると思い込んでいるのです。そういえば、私自身自分が不在になったことがあったのですが、それも自分が体験したことだと思い込んでいるエゴがいます。

笑い話としか思えないようなことですが、これ事実です。自分という個人が不在だとはっきり分かっているのに、その体験を自分がしたと言い張るのですから。

こうしたおかしなことが起きる一つの理由として、記憶そのものはエゴがあるときでもないときでも変わらないからなのでしょうね。

覚醒してしまうと人はどうなるのでしょう?という質問をいただくことがたまにあるのですが、それはエゴという本人が消えてしまうのですから、予想ができない感じがするのでしょう。

実際には、エゴが消えた後もそれまでの記憶はそのままに残るので、基本的には昨日と変わらない今日がやってくるはずなのです。

ただし、エゴがあったときの記憶を思い出すと、自分以外の誰かの過去の記憶を思い出しているという感覚になるかもしれませんね。

思い込みのてんこ盛り

マインドをよくよく調査してみると、生まれてからこれまでにどれだけ多くの思い込みをしてきたかが分かります。

思い込みとは、その言葉のとおり真実や事実ではないのです。なにせ思い込んでいるだけなのですから。

どんな思い込みをしてきたかというと、人生で最初の思い込みはこの身体のところに自分がいるというもの。

この自分は両親やその他の人とおなじような個人だという思い込み。そしてその思い込みをする前から着々と作り込んできた自己イメージを自分だと思い込むのです。

自分はダメな奴だとか自分は罪深い、自分は情けない、自分は惨めだ、こうしたネガティブな思い込みを持っていない人はいません。

自分は○○のことを知っているという思い込みもてんこ盛りです。これは知っているのではなく、○○についての情報があることを知っているだけなのです。

そして○○という体験があったときには、すかさずそれは自分の体験だと思い込むのです。

そして自分の人生を生きているという思い込み。人生とはマインド自体が作った物語であり、思考の中にのみ存在するものです。

それ以外にも、自分には自由意志がある、自分が人生を切り盛りしている、自分は特別な存在だ、などの思い込みによってエゴは持ちこたえているのです。

考えてみれば、思い込みしかないのかもしれませんね。本当に知っていることがあるのか、一度じっくり見つめて見るのもいいかもしれませんよ。

癒しには勇気が必要不可欠

勇気とはいったい何なのか?それは、あなたのマインドが言い、あなたの論理が言い、あなたの正気が言っているすべてのことをものともせずに、それでも進むという意味だ。あなたは危険を知っている、あなたは危ういことを知っている。それでもあなたは進む。

by osho

↑だからこそ、癒しには勇気が絶対的に必要だということです。癒しというのは、生後押し付けられたあらゆる考えを脇へ置いて使わないようにすることだからです。

あなたのマインドが常にあなたに語りかけてくることとは、かつて親や先生たちから言われ続けてきた言葉なのです。

お前がいけない、お前が間違っている、そんなんじゃ恥ずかしくて生きていけない、お前がダメだから等々の言葉。

あるいは、あなたがこれは論理的に筋が通っていると思うことは、あなたの思考によって組み立てられたものなのです。

矛盾しないでいられたら気分もいいし、誰かに否定されることもないし、立場が安泰と感じるのです。

さらに、あなたが自分は正気を保っているので、自分の考えは正しいに違いないと信じているのです。だから簡単にはそこから逸脱できないのです。

こうしたすべての信条、信念、正しさ、批判、全部もろとも脇へ押しやって使わないようになることができたら、あなたは新しい人生を歩むことができるのです。

そうなったら、重苦しく感じていた毎日が、何て軽やかで清々しいものなのかと感じるようになるはずです。

親二世を見守ってあげる

初めに、自分自身を批判するのを止めることだ。批判する代わりに、あなたの不完全さ、あらゆる弱さ、あらゆる誤り、あらゆる失敗を持つあなた自身を受け入れることから始めてごらん。完全であることを自分自身に求めてはいけない。それは不可能な何かを求めているだけだ。所詮あなたは人間なのだ。

by osho

確かに↑これは正論ですし、癒しの基本中の基本ですね。このことを深く自分の内面に浸透させる必要がまずあります。

自分自身を批判するクセは、幼い頃に親や周囲から批判されたり否定されたという思いが作り出すのです。

自分の中に、そういう親と同じ部分を作って、実際に親に批判される前に自分で自分を批判することによって危険回避をしようとしているのです。

これを親の内在化と呼びます。つまり親二世を自分の中に作ってしまうわけなので、成長して実際の親と離れたとしても一生ついて回ることになるのです。

なので、↑のような正論を聞かされても、はいそうですかと自己批判をやめていけるわけではありません。

この親の内在化による自己批判、自己否定は放っておけば、人によっては死ぬまで活動し続けるのですから、タチが悪いですね。

むやみに自己批判をやめればいいと頑張るよりも、まずは親の内在化された部分をよくよく見つめてあげることです。

それは必死に幼い自分を守ろうとしているだけだったと気づいてあげること。そうやってそれをまるごと見つめて受け止めてあげるのです。

それが発動するときには、常に見ててあげることができるようになれば、自然とその部分を使わずに生活することができるようになってきます。

これが意識的に生きるということですね。

家族を特別視しない

日頃から、オリンピックにはこれといった興味を持っていない方だったのですが、年齢とともに暇になってきたせいか、今年は見る機会がそこそこありました。

その中で、女子フィギュアスケートのロシアの選手がすごかったですね。銀メダルをとったメドベージェワ選手がメドベージェフ首相から何かを授与されたというニュースも見ました。

両者が似たような名前なので不思議だなと思ってネットで検索してみたら、女性は「ワ」を使い、男性は「フ」になるらしいことを知りました。

ようするに二人は同じ苗字だったってことですね。そしてこれは「熊」を意味する形容詞から来ているらしいです。

さらに言えば、ロシアでは苗字の代わりに○○祖父の○○父の○○という呼び方もしていたようです。

私で言えば、祖父が「順」、父が「正義」、で私が「富士夫」なので、それらを使ってフルネームで呼ぶなら、ジュン・セイギビッチ・フジオフってことになるのかな 笑?

代々の名前を使って自分の名前を表現するというのは、どうなんでしょう?親を嫌っている人の場合は、自分の名前を嫌うことにもなりそうですね。

私は家系とか親族とか、そういうものに何の価値も見出せない性分なので、ホントどうでもいいのですが…。

家柄とか、血統、血筋、血縁の伝統あるいはお墓を守る的なことにはまったく興味がないのです。

昔何かのパロディで、「東北の親戚より北区の他人」というのがありました。勿論、「遠くの親戚より近くの他人」をもじったものですが、確かにそうだなと思いますね。

家族を特別視する必要はさらさらないということ。親だからと言って殊更大切にしなければいけないということはありません。

大好きな人なら大切にしたいのは当然のことだし、もしも嫌いなら、それは嫌いでいいし自動的に疎遠になるのは当たり前ですね。

思考と感情の関係

私たちが日頃感じている感情について見てみると、その多くが何らかの思考によって生み出されているということが分かります。

勿論、中には何の理由もないのに、ただ夕日を眺めているだけなのに悲しみに襲われたりといったことがないわけではありません。

直接的などんな理由もないのに、込み上げてくる感情があるのは事実ですが、大抵の場合には理由、つまりそこには思考があるのです。

自分は独りぼっちにされたと認識することで、悲しみがやってくるでしょうし、得体の知れないものに追われて危険を察知したら、恐怖がやってくるのです。

ところで思考が原因となって起きる感情を、そのまま感情として味わってあげることができるなら、その感情の元となる思考には執着せずに済むのです。

逆を言えば、やってきた感情から逃げたり蓋をして見ないようにすればするほど、元となる思考にこだわるようになるということです。

先ほどの例で言えば、独りぼっちにされたことで悲しみがきたときに、その悲しみを隠してしまうと、独りぼっち感が持続してしまうのです。

その悲しみを思い切り感じ切ってあげるなら、独りぼっちということをそれほど大きな問題として見なくなる可能性があるということです。

イメージしていただければいいのですが、「思考→感情」という流れがあって、その感情を温存するなら、「感情→思考」という正帰還ループが起こるということです。

どんな種類の感情であれ、それそのものを悪いとかいいとか判別するのは間違っています。問題は、感情を感じずにいることと、その元となる思考なのですね。

身体との同一化を見抜いてこの世界を眺めると…

人が幼少期にエゴを作る上で絶対的に必要だったのが、いつもそばにあったこの身体なのです。つまり身体と同一化することでエゴは出来上がったとも言えるのです。

一度身体に同化してしまうと、身体が自分だと思い込んでしまうと、身体の行動が自分の行動になり、身体があるところが自分がいる場所になるのです。

さらに身体の美醜が自分の美醜にもなるし、身体のサイズが自分のサイズということになるわけです。

そして身体の内側だけが自分の領域だという感覚も育つのです。この身体の内側感、身体のサイズ感というのが非常にしぶとくて、もうほとんどそれが思い込みだとは思えないのです。

けれども少しスピリチュアリティが上がってくれば、自分は身体ではないということにも気づけるようになるのです。

だとしたら、自分はどこにいるのか?自分という存在のサイズは?ということが疑問になってくるのですが、この問いに対する明確な答えは残念ながらないのです。

なぜなら、私たちの本質はこの身体が所属しているこの世界の中に在るわけではないからです。敢えて言えば、この世界を包含する全体性こそが真の自己なのです。

こうしたことを感じながら、向こうに広がる世界を眺めていると、自分の本質がおぼろげながら分かるようになるかもしれないですね。

真実とは主観の世界

真実というのは私たちが知っている常識だとか、科学が解明してきた事実とかの延長線上にはないのだろうと思うのです。

論理的なこととか、思考で把握できることとかをはるかに超えたところに、真実は厳然と横たわっている感じがします。

例えば、人が何かの対象物を見るというメカニズムを科学的に言えば、何らかの光源からの光がその対象物に当たり、反射した光がその人の目の中へと入る。

その光が作った網膜上の像が、電気信号に変換されて脳へと送られる。その後様々な処理が脳内で行われた末に、見ることに至るのです。

これは勿論、科学的なそして客観的な事実なわけです。けれどもそのことが、主観的な見るということにどうもそのまま結びつかない気がしませんか?

科学で解明できることというのは、あくまでも客観的な事実であって、主観的な世界では用をなさないのです。

客観的事実と主観的な世界を同一視しない勇気を持つなら、真実はいつでも目の前に広がってその姿を見せてくれてるのですね。

誰が何と言おうと、実際世界中の誰もがあなたをそれとして見ている姿は、あなたが主観的に自分を見る姿とは全く異なることがあってもいいということです。

そして真のあなたの姿、あなたの本質はあなた以外の誰も見ることはできないのです。それが主観の世界なのです。

真実は、あなたが自分に自信があるとかないとかと言うことを気にせず、自分が見たままを正直に認めることを、ずっと待っていてくれているように思います。

次の一歩が進まない

人間とは社会的な生物であるというのは、勿論他のどんな動物も人間のように複雑な社会というものを持たずに棲息しているからです。

けれども社会的生き物だと断定する前に、そもそもなぜそのような社会を生み出すことになったのかを見れば、それは明らかにエゴをこしらえたからだと言えます。

エゴが自らの必要に応じて、社会というものを作ったのです。ということは、社会的生き物だという前に、人間とはエゴだと言う方が直接的なのです。

エゴを持たずにいれば、その人は人間の形をした何か別のモノだと言った方がいいのです。その場合には、殊更社会というものを意識せずに生きるのです。

もしも社会というものを拒絶するのなら、その人もエゴの虜であるのは確実です。なぜなら、社会を嫌うのですから社会を意識しているわけです。

このようにエゴは人間にとって、それを人間たらしめるためには必須だということが分かります。

それなのに、エゴを持ってしまったばっかりに、他のエゴを持たないどんな動物よりも、深い苦悩を持ってしまったのは皮肉なことですね。

けれども、エゴを持つということは自意識が芽生えるというほとんど不可能なことを実現したとも言えるのです。

自分がこの自分としてここにいるという思い、それこそがエゴの基盤となっているのですが、これこそが待望の「意識」の芽生えなのです。

そういう意味ではエゴは画期的なのです。そしてここで立ち往生しているのが私たちの現状ではないでしょうか?

せっかく意識に芽生えたのですから、その次のステージへと気づきの深さを掘り下げて行きたいものですね。それでこそエゴを作った意味が見えてくるのですから。

ところがどっこい、エゴというのはほんの少しの自意識と大多数の無意識というマインドの混合比で成り立っているのです。

だからこれを全部意識に変えようとするのはエゴの死を意味するわけで、何万年もの間意識的になるのを拒んできた理由も頷けるというものです。

ただここで一歩、エゴのままで満たされるということは絶対にあり得ないということだけは深く理解しておく必要があるということですね。

次の子宮へと生まれ出る

胎児というのは、お母さんのお腹の中にいるときに指しゃぶりをするそうですね。それはれっきとした準備運動だそうです。

つまり、生まれた赤ちゃんがすぐに母乳を飲めるように、胎児の間に訓練をするということです。子宮の中では絶対に不要な動作ですから。

もしも子宮の中の胎児しか見たことがなければ、指しゃぶりが何のための動作なのか、決して理解できないはずです。

なぜなら必要な栄養その他は、子宮にいる限りはすべて胎児の口を使わなくても母体から供給され続けるからです。

そのほかにも、胎児はシャックリのようなことをして、肺呼吸の準備をしてみたり、羊水を飲んでオシッコをして摂取と排泄の練習もするらしいです。

さてめでたくお母さんの子宮から外の世界に生まれ出て、そこから人間としての人生がスタートするわけです。

私たちは、なぜエゴを作り出して不要とも思える苦悩の中で生き続けなければならないのか、分からずにモヤモヤしているのです。

けれども、それはこの世界、この社会という子宮の中での次の子宮へ向かうための、何かしらの準備なのではないかと考えてもいいのではないでしょうか?

この世界にやってきて、初めて胎児の指しゃぶりの理由が分かるように、次の子宮へと進んだときに初めて、このエゴやその苦悩の目的が分かるのです。

胎児がいつかは母親のお腹から生まれてくるように、私たちもいつかは次の子宮へと生まれていくことになるのだと思います。

それが覚醒するということなのかもしれません。だとしたら、自然任せでいることが一番いいのでしょうね。