パワハラの根っこにあるもの

パワハラをする加害者側の論理というのは、相手が「ノー」と言えない状況を利用して、相手をコントロールしようとするいたってシンプルなものです。

一方パワハラをされてしまう被害者側についても、実は単純にいえば自己防衛がそれを起こさせてしまうのですが、ただ被害者には非がないということで、ほとんど見ようとしないのが実情です。

たとえば、命の恩人がいたとして、その人にセクハラ的なことをされたとしても多くの人は「ノー」を言いづらいと感じるのです。

これがどんな自己防衛なのかというと、恩のある人、大きな借りのある人に対して、我を通したら人非人になってしまうという恐れがあるのです。

その恐怖から逃れる(自己防衛)ために、「ノー」が言いづらい状態へと自分を追い込んでしまうのです。

ワイドショーなどで、レスリングのパワハラ問題をかつて連日放送していたときがあったのですが、日本に沢山の金メダルをもたらした実績ある功労者である監督なのに…、という言葉をよく耳にしました。

そういう色メガネをかけて人物を見てしまう傾向があるのですね。そのことと、行動を天秤にかけてはいけないということです。

その一方で、その人の行動はその内側にあるマインドが起こしたことだと気づいていること。

パワハラがなくならないのは、加害者側にだけ問題があるわけではなく私たちのマインドの働きとして深く根付いているものだと見抜くことですね。