癒しは薬剤と違う

これはクライアントさんアルアルなのですが、何らかの内面的な問題を治したいと思って癒しを始めるわけですが、調子が良くなると癒しのことを忘れてしまうのです。

元々癒しそのものに興味があるわけではないのでしょうから仕方のないことかもしれませんが、それはとても勿体無いことだなと思うのです。

暫くしてまた具合が悪くなってようやく、癒しのことを思い出すといったことの繰り返しですね。

実は癒しというのは、調子の良いときほど忘れずに進めていくことが肝要なのです。たとえば瞑想のことを題材にしてみれば分かりやすいと思います。

初心者が瞑想を練習していこうとするなら、一日のうちで一番心が落ち着いている時に試みるのが賢明ですね。

なぜなら、心がざわついていたら深く入るのに時間もかかるしなかなか難しくなってしまうからです。

平静なときにこそ瞑想を繰り返し練習をして、深く入ることを体得しておくことができれば、いざ心を落ち着かせたいと思ったときにそれが役に立つわけです。

けれども、普段瞑想のことを忘れてしまっていて、いざと言う時に瞑想しようと思っても、簡単には深く入れないものです。

それと全く同じことが癒しにも言えるのです。具合が悪くなってからよりも、本当は元気なときの方が冷静に内面を見れるので都合がいいのです。

病院でもらう薬のように、症状が治ったら服用をやめるというのと一緒にしないほうがいいということです。

大切なことは普段から心がけておくのがいいという、いたって当たり前のお話しでした。

真実を知るとは?

覚醒して真実を知ることになるとは、一体どんなことなのかなと思って少し気づいたことがあります。

たとえば、仏陀が覚醒したのは2600年も前のことですが、その当時は宇宙がどうなっているのかとか、人間の身体についての情報はほとんどありませんでした。

現代の人が当たり前のように知っている様々な情報を何一つ知り得ない時代なのに、真実を知ることはできるわけです。

ということは、私たちが時代と共に知り得たことなど、この先どれほど積み重ねようが真実からは程遠いということになりますね。

そう考えると真実とは、宇宙の生い立ちや構造のことをいくら深く知ったところで追いつくところにはないということ。

人類がその叡智を結集してあらゆる事象を解明したところで、真実にはまったくもって届かないのです。

真実とは、この宇宙全体がどうなっているのかということではなく、あなたがナニモノなのかを知ることなのでしょう。

それを知ることができるのは、他の誰でもないあなた以外にはいないということですね。

衝立作ってみた

暇に任せて、写真のような衝立を作ってみました。ちょっと分かりづらいかもしれませんが、丸テーブルの上に載せてあります。

セッション中、ずっとマスクをしているのは辛いので、クライアントさんには外してもらって構わないとお伝えしているのですが、気を使って外さない方もいらっしゃったりして。

私自身も、2時間ずっとマスク越しにお話しするのは辛いので、思い付きで透明のアクリル板で飛沫感染を防ぐための衝立を作りました。

久しぶりの苦手な DIY だったのですが、比較的スムーズに足の部分を取り付ける作業を終えることができました。

今後気が向いたら、床直置きのちょっと大型のものも製作してみようかなと考えています。

マスク越しでも慣れて仕舞えば大丈夫なのかもしれませんが、何だかクライアントさんとの距離を感じてしまって、いい気持ちがしないのですね。

どうもせちがない世の中になったものだと思いますが、慣れていくしかないですね。セッションルームは綺麗にアルコール消毒していますので、安心していらして下さいね。

明け渡しはいつ?

最近どういうわけか、私の自我はあまり元気がないのです。特にこれといった理由は見つけられないままに、何だかつまらないなあと思っています。

じっくり考えてみると、今の私の実生活ではこうなったらいいなあと思っていたことは大抵現実になってしまっているのです。

夢というほどの大袈裟なものではないですが、20年前の私が今の私を覗き見したら、本当に驚くことばかりだろうと思います。

一つ一つ挙げて言ったらキリがないくらい、些細なことも含めたら概ね希望通りの人生になっています。

それなのに、そんなことはもう当たり前になってしまっていて、特別有難がるわけでもなく、ただ毎日が過ぎて行くだけだなあと。

覚醒という観点からみれば、自我がその勢いを落として少しずつ落ちぶれていっているのであれば、喜ばしいことなのですが…。

実際のところはどうなのか、もう少し様子を見てみなければ分からないのですが、あまり生きている気がしないのは鬱陶しいです。

この生きている気がしないというのは、実はずっと以前からあった感覚で、それが少しずつ大きさを増してきているという感じかもしれません。

真の自己にこの生を明け渡す時が来るのかどうか、期待せずに待つことにしようと思います。

自己イメージを見限る

何かというと自分を責めてしまうという人がいますね。過去の自分の言動を思い出しては後悔するのです。

あのとき、どうしてもっとこうしなかったんだろうとか、なぜ自分はいつも人ができるようなことでもうまくできないのだろう等々。

自分へのダメ出しは決して正当なものだとは思えません。なぜなら、全く同じことをしても自分を責めない人もいるからです。

自分を責めてしまう人と責めない人の違いはどこから来るのでしょうか?この問いには真剣に向き合った方がいいと思います。

すぐに自責してしまう人の場合、実は幼い頃に作られた自己イメージにその原因が隠されているのです。

子供の頃に周囲から否定されたり放って置かれたり、怒られてばかりであれば、その子の自己イメージはとても否定的なものになってしまうのです。

そして一旦自己イメージが否定的なもので塗り固められてしまうと、特別否定するべき理由がなくても自分を責め続けることになるのです。

つまりその人が日頃どんな生き方をしていたとしても、その根底には自己否定が沈殿しているので、いつでも自分を責める準備が整っているというわけです。

その結果、何はなくとも自分を責める題材を探しながら生きているのです。そしてどんな屁理屈であってもそれを使って自分を責めるのです。

自責グセのある人は、誰からも否定されないように頑張ってみたところで、結局は自分を責めてしまうのにはこうした理由があったのです。

どんな自己イメージであれ、そのすべてが事実ではないということを深く理解することで、次第に否定的な自己イメージは薄れていくものです。

自我は表層にいる

私たちの生活の場というのは、物理的に言えば地球という天体の表面にありますね。地球の表層を活躍の場としているわけです。

地球というのは球体であって、地表はそのごく一部に過ぎません。地球の内部については、ほとんど分からないのです。

子供の頃にマントルという部分があってといったことは教わったのですが、それでも誰も行ったことがないのですから、本当のところは誰も知らないのです。

地球の円周が約4万kmだとすると、半径はざっと6000kmくらいあるので、地球の中心まで旅をしようとすると大変なことになるのです。

ちょうどそれと同じようなことが私たち自身の内面についても言えるのです。地球の表面にあたる部分にマインドがあって、自我はそこに棲んでいます。

マインドの層を中心に向かって進んでいくと、ハートの層に到達します。そして更に内奥へと進んでいけば私たちの本質がそこにあるのです。

本質は純粋な意識であり、地球でいうとマントル部分に相当します。自我のことを自分だと思い込んでいるため、自分の中心、内奥を垣間見たこともないのです。

これまでずっと外側に向けていた視線を180度向きを変えて、内側へと進んで行けば、これまで感じたことのない繊細なハートと出会うことになるはずです。

そして更にその先には完全に忘れていた自分の本質に出会うことができるはずです。たまには、地表だけが地球ではないということを思い出して、内面を深く見つめる練習をしてみるといいかもしれないですね。

自己消滅の願望

これまで数え切れないほどのクライアントさんとのセッションを通して、人のマインド(自我)とはどういうものかを見るチャンスをもらいました。

それは当然のことながら、私自身の自我にも言えることですが、要するに自我は自分を守りたいのです。安心を常に求めているのです。

安心するためには、誰かに勝つとか高い評価をもらうとか、正しさだとか人格者であるとか、健康である等々。

自我はあらゆる手段を用いて自分を安心させたいのです。それを自己防衛と呼んでいるのです。

自己防衛の強さは人それぞれですが、いずれにせよ自我は自己防衛を本性として生きているわけです。

ところが不思議なことなのですが、私の自我は誰かのために自分の命を投げ出すといった究極の状況をイメージすると、感動するのです。

もしも誰かを助けるために、自分の命が犠牲になるのならこんな大きな喜びはないと思っているフシがあるのです。

それが想像の世界だけのことなのか、それとも現実の世界であって本当にそんなことがやってくるとしたらそれでも喜ぶのかは定かではありません。

その歓喜のレベルは、もしかしたらそれ以外のどんな幸福よりもずば抜けて大きな悦びかもしれません。

自我というのは、普段隠しているのですが、本当は自己消滅の願望を持っているのかもしれないですね。皆さんの自我はどうでしょう?

ハートを優位にする

私たちにとって、ハートを通して見る世界とマインドを通して見る世界とでは、全く様相が異なるのです。

ハートはまるで幼児のように純粋無垢であって、無防備にあるがままの世界を直接見せてくれるのです。

一方マインドは、知覚を通してやってきた情報を思考によって脚色した後で見るので、そこには必然的に投影が入り込むというわけです。

自我はマインドの中に住んでいるので、放って置けばマインドの眼で世界を見ることになるのです。

したがって自我にとっては、この世界をあるがままに見ることはとても難しいこととなるのです。

ハートとマインドの両方をバランスよく使った生き方ができるといいのですが、ストレス過多で、防衛だらけになってしまうと自ずとマインド優位となってしまうのです。

ハートはマインドと比べれば、繊細で傷つきやすいので自我にとっては都合が悪いのですね。

とはいうものの、一度でもハート優位で生きる感覚を知ってしまったら、それを忘れることはできなくなってしまうでしょう。

たとえばマインドが知っている感謝とハートによる感謝とでは、同じ感謝でも全く異なるものだからです。

外出の自粛が続いていてちょうど良いチャンスでもあるので、毎日5分でも10分でもいいので瞑想をしてみることをお勧めします。

瞑想状態はマインドをおとなしくすると同時に、ハートを開いてくれるので、ハート優位で生きるフレーバーを知れるようになるはずです。

孤独は自我の属性

私たちは一人残らず孤独なのです。正確に言えば、自我というのはその成り立ちからして孤独であるということ。

外側の世界と分離して存在していると思い込んでいるのですから、孤独は決定事項でしかないのです。

そんなことはない、大好きな人といつも一緒にいられるので孤独でなんかないと思っている人もいるかもしれません。

確かに子供の頃に、優しい家族と共に育ってきた人にとっては、孤独とは自分以外の誰かのことでしかないと感じているのでしょう。

けれども、環境によって寂しさを感じないで済んだということだけで、勇気を持って内側深くへ入っていけば、そこに孤独を見出すはずなのです。

逆にそんなことをわざわざしなくても、幼い頃からずっと孤独を感じていたという人もいるはずです。

どちらの場合であれ、多くの場合人は自分の孤独をそのままに見ようとはしないのです。孤独を紛らわすさまざまな方法を知っているのです。

大切なことは、生来孤独であることを受容すること、その孤独を見ないように生きてきたことも受容するのです。

孤独をしっかり認めてさえしまえば、孤独が良いことでも悪いことでもなく、それは自我の属性だと気づけば、いずれは自我と共に孤独も消えてしまうことになるのですね。

人生が夢だと見抜く

もしもあなたの目の前で、悪夢を見てうなされている人がいたらどうするでしょうか?きっと揺り動かしてその夢から覚まさせるはずですね。

けれどもセラピストの仕事というのは違うのです。その悪夢の中に入っていって、苦しみの原因を暴いて悪夢を普通の夢に変えようとすることです。

なぜならセラピストも悪夢を見ている人と同じように、自分自身の悪夢の中で生きているからです。

揺り動かすことができるためには、もうすでに自分自身の悪夢から目覚めている必要があるからですね。

だからクライアントさんとのセッションでは、基本的にはごく普通の心理療法を行うわけです。

クライアントさんの苦悩をなるべく深く理解して、その原因に光を当てるように持っていくようにするのです。

それが夢だと気づいていても、悪夢を良い夢に変えることができればよしとするのです。ただし本音は違います。

本当に本当に伝えたいのは、どんな人生であれあなたが個人として生きているなら、それはマインドの夢だということなのです。

そのことに気づいてしまったら、どんな人生であろうと一瞬にして救われることになるでしょうね。