私はこれまでどんな宗教とも関わったことがないので、信仰心というものから遠いところで生きてきたような気がしています。
少し穿った見方をするなら、信仰する心というのはそこに疑いがあるからこそなのではないのかなと。
もしも少しの疑いもないのであれば、どうして信仰することができるでしょうか?信仰などいらないはずなのです。
信仰することで疑う心をなんとか鎮めて、場合によってその疑いを覆い隠すためにも信仰心が必要となるのかもしれません。
それでも、初めはそうした疑いがあったとしても、それにもめげずに熱心に信仰し続けることで、帰依する深さを増していくことができるのかもしれませんね。
一方で、信頼というのは自然発生的に起こるものであり、そこにはどんな理由も原因も見出すことができないものです。
私にとって、信頼は少しは身近なところにあるような感じがしますが、それほど容易なものではないことも理解できます。
けれども、信仰がより深くなっていった先には、自ずと信頼へと向かうことになるのだろうなと思うのです。
そうして信仰と信頼の区別がつかなくなった頃、自我は居場所がなくなって消滅していくことになるのですね。