復讐の人生

人は誰もが幸せになりたいと思っているその裏側で、実は仕返しを目論んでいる心を持っているのです。勿論それは一般的には自覚されていません。

そして仕返しを現実のものとし続けるためには、残念ながら自分の人生を幸せの方向とは反対に向かわそうとしてしまうのです。

なぜなら、自分が誰からも羨ましがられるような幸せな人生を得てしまったら、それこそ仕返しすることができなくなってしまうからです。

つまり、その仕返しとは自分の人生が病気や不運などの苦悩によって彩られている必要があるということです。

その理由は、仕返しの相手が親だからです。あなたのせいで、自分はこんなに苦しんでいる、こんなに辛い人生になってしまったのだということを知らしめたいということです。

それは元はといえば、幼いころに自分が我慢をして自己犠牲を強いてきたことに対する不満の気持ち、文句を言いたい、訴えたいという思いがベースになっています。

そうした満たされない思いが大人になっても人生のあらゆる場面で、かたちを変えて現実としてやってくるのです。

成長する過程において、充分にその不満を親にぶつけて受け止めてもらうことができたなら、その時点で仕返しは沈静化すると共に幸せを求める人生がやってきます。

しかし、そうしたことが実現できないまま大人になってしまうと、いつまでたっても親に対して訴え続ける気持ちがなくならないのです。

そしていつしか、訴え続けること、つまり復讐することそのものが人生の目的と化してしまうのです。これは本当に恐ろしいことですね。

大切な自分の人生を馬鹿げた復讐のために台無しにしてしまう可能性があるのです。もしも、自分の人生を呪いたくなるような気持ちがあるのでしたら、このことを一度真剣に見つめてみることをお勧めします。

感情は溜まる

10年前に会社を退職して、ヒプノのスクールに通い始めたときに、学んだことの中でとてもインパクトのあるものがありました。

その一つは、感情というのは心の中に溜まっていくものなのだという事です。それまでの人生ではあまり感情について真剣に考えたこともなかったのです。

感情というのは、単にその時々の状況に合わせて心に浮かび上がってくるものであって、その場を過ぎれば消えていってしまうものと漠然と思っていました。

自覚としては、過去に体験したいやな出来事やそのときに感じた様々な感情を、自分がいつまでも心の奥に残して持ち続けているということはありませんでした。

過去のことを思い返したときに出てくる感情がもしあったとしても、それは現在の感情であって過去に感じた感情とは別のものだと思っていたのです。

このように認識している人は多いのではないでしょうか。勿論、今この瞬間に新たに沸き起こってくる感情というものも確かにあります。

しかし、過去の出来事を想起したときに沸き起こってくる感情は、過去に自分が感じて未消化のまま残っていた感情である場合がほとんどなのです。

この気づきはとても新鮮でしたし、ある意味驚きでもありました。感情はしっかり味わって消化しない限り、時間を越えて過去から現在へと生き続けているということです。

このことにはっきりと気づくことができたおかげで、人の心のメカニズムというものに深く係わっていくことができるようになったのかもしれません。

感じなくなることでなくなってしまったと思った感情は、基本的にはみな心の奥に抑圧されてしまわれていただけだったのです。

一般的な事実の記憶と同じようにして、我々はその時々に未消化にした感情を記憶として心の奥にしまってしまうということです。

そうしてしまわれた感情記憶は自分にとって都合の悪いものですから、自分で意識しない限りいつまでも川底のヘドロのように溜まったままになるのです。

そしてそれがある限度を越えたときに、無自覚のうちに表面へ飛び出してくることになります。その時に初めて自分の心には何か得体の知れない感情があるということに気づくのです。

何も特別なことが起きているわけでもないのに、ふと電車の中などで涙が出てきてしまうというようなことになったりします。

あることをきっかけとして、急に怒りっぽくなってしまったとか、今まで寂しさなど感じた事もなかったのに、孤独感を感じてしまうようになるといったことが起こるのです。

誰の心の奥にも未消化なままになっている沢山の感情が溜まっています。それは悪いことでも病んでいるわけでもない、正常なことなのです。

ただ、それがあまりにも限度を越えて溜め込まれた状態であれば、必ずそれがその人の人生の中で大きな影響を持って表面化するようになるということなのです。

感情は見えるものではありませんが、ある種のエネルギーの塊のようにして心のひだの奥深い部分に蓄積され、それがその人の人生をコントロールしているということなのです。

小さな幸せ

私達は確かに、より幸せになれるものならなりたいと思っています。誰もわざわざ苦しむことを好んで引き寄せようとなどしないと思っているのです。

現状の自分にはとても簡単には手が届きそうもないような幸せを夢見たり、憧れを持ってそうなれたらいいなと思うことは誰にでもあることです。

ところがその反面、すぐに手が届きそうな幸せに対しては、人は一概にそれをすぐにでも手に入れようとばかりするわけではないということがあります。

幸せというと大げさですが、今日確実に手の届くような満足感とか達成感とか、そういうものを絶対に手に入れようとなど思ってないということです。

例えば、今日中に終わらそうと思っていた物事を計画通りに無事やり終えることができたら、プチ幸せになれる、気持ちをスッキリさせることができると分かっていても、それをせずにその日を終えてしまうことがありますね。

この一口を我慢することで、ダイエットを成功させて晴れ晴れとした気分で人生を過ごせると分かっていても、食べてしまうこともあります。

大きなやさしい気持ちで相手に接することができたら、互いに小さな幸せを感じられるはずなのに、相手が言った一言に気分を害して、いやな反応をしてしまうこともあります。

こうして見て行くと、私達は本当に幸せを求めていると言えるのかと疑問を感じてしまうのです。簡単には実現しそうもない幸せを例にとって、それを本気で願っていると思っているだけです。

そういうものは、この瞬間に自分がすべきことと結びつかないために単にその幸せを求めていると思っているだけなのかもしれません。

本当に幸せを求めているのであれば、身近にある小さな幸せに対して、それが叶うように具体的にしていくはずです。

大きな幸せよりも、小さな幸せをしっかり実現できるように、日々自分の言動に気をつけることが大切なのだと思います。それができて初めて、本当に幸せを求めているということになるのではないでしょうか。

求める人生

何かを渇望して、それを手に入れるために無類の努力をして、そしてめでたくそれを得られたとしても人は満足することはありません。

志望する学校に入学できても、希望する会社に就職できても、愛する人と結婚できても、素敵なマイホームを建てられたとしても、決して満たされることはありません。

3億円の宝くじに当選しても、そのお金で好きなものを沢山購入できても、自分の思い通りに人や社会をコントロールできたとしても、金メダルを獲ったとしても、結果は同じです。

その理由は簡単です。今上で挙げたようなことはみな自分の外側で起きたことだからです。その時々の達成感だったり、一過性の満足感は確かに得られます。

しかし、真に私達が求めている永続的な満足感、満たされていると言う感覚とは違うものです。真に満ち足りているとは、それが決して失われるものではないと分かっているということです。

自分の達成した成果や外側で起きたことというのは、すべて一過性のものに過ぎません。それはいつ失われることになっても不思議ではないのです。

つまり外側に何かを求めている限り、それを手に入れられても入れられなくても満ち足りるということにはならないということです。

自分の外側に求める心こそが自分の心に欠乏感をいつまでも残してしまう原因となっているのです。求める人生を辞めることこそが、満ち足りた幸福な心になるための条件だと言えます。

外に求めないと一口に言っても、そのことを真剣に考えてみると大変なことだと気づくことができます。なぜなら、私達は一様に誰でもがずっとそうした人生を送ってきてしまっているからです。

他の人の力に頼って求めるのが依存心であり、自分の力で求めるものを手に入れようとするのが自立心なわけです。

結局、自立していても依存のままであってもどちらも本当に満ち足りるという心の状態にはなれないということになります。

勿論、私達は簡単には求める人生をやめることはできないでしょう。それでもそれを承知の上で少しでもそこから手を引くことにチャレンジする必要があるのではないかと思います。

それが与える人生ということになります。

怒りの取り扱い その2

昨日のつづきです。

幼い頃に不安の中で生活してきた人はそれだけ自分を防衛しようとする気持ちが強くなるために、それだけ多くの怒りを溜め込んでしまうということでした。

そしてその怒りを何とかして開放していかないと、その後の人生において新たな怒りを覚えてしまうような現実がやってきてしまうのです。

このやっかいな怒りという感情について、このように対処すればいいんだということを我々は習わずに大人になってしまうのです。

私達は怒りをどう取り扱えばいいのでしょうか?持て余すだけで、今更誰にも聞けないと思っている人もいらっしゃるでしょう。

心に関することで正解というのはないかもしれません。しかし、次のようなことを心がけることはヒントになるはずです。

まず、怒りという感情を特別扱いする必要はないということです。他にも沢山感情の種類はありますが、そうしたものと同じものだということです。

どうしても怒りは攻撃的なニュアンスが強いので、悪いもの、人に迷惑がかかるもの、そうしたネガティブなものだという思いが根深いのです。

まずそれを払拭することです。怒りはただ自分を守ろうとする時に湧き上がってくるだけのものなのだと理解する必要があります。

いいも悪いもないし、ただ怒りを感じているだけなら別に誰にも迷惑をかけるようなことはありません。その怒りを自分で受け入れずに相手にぶつけてしまうと迷惑になるだけです。

怒りを感じる自分を否定する必要もありませんし、ただ自分の心の内部でそれを感じて処理することができれば、正常な心の状態に戻ることができるのです。

自分の怒りともっと密接に付き合うという意識が必要かもしれませんね。感情はすべて正当なものだという理解が大切なのです。

自分の怒りをきちんと受け止めて、内面で味わって開放することができれば、他の人の怒りの感情に対しても拒絶することがなくなるのです。

是非、自分の怒りを手なずけて仲良くなって下さい。そして、どんな怒りが湧き上がってこようと、いつでもそれを冷静に処理することができれば、生きることがとても楽になるはずです。

怒りの取り扱い

今更言うまでもなく、怒りというものは自分を攻撃的な気持ちにさせるための感情であるわけです。比較的静かな怒りもあれば、とても激しい怒りもありますね。

どちらにしても、相手を攻撃することで自分を守ろうとする行為であるのです。それは物理的に、自分に襲い掛かってくる危険から自分を防衛しようとするだけかもしれません。

また、心理的な面で相手にこれを分からせたい、訴えたいという気持ちの表現かもしれません。

分かってもらえない自分、受け止めてもらえない自分があまりにも惨めだし、可愛そうなのでそういう自分にならないように防衛しようとするのです。

だから端的に言って、強く防衛しようとすればするほど、怒りが強くなってしまいます。逆に無防備の方向へ気持ちが行けば行くほど、怒りは薄くなっていきます。

そこから類推して、幼い頃に安心できるような環境ではなかった場合、つまり不安や恐れが多かったような場合には強く防衛しようとして怒りが沢山溜まることになってしまいます。

そして幼い頃から溜め込んだ怒りの感情は、その後の人生の中で都度本人の心に怒りを誘発せざるを得ないような現実を起こすことになります。

つまり怒りを抱え込んだ心ほど、負のフィードバックがかかり更にその上に怒りを溜めていくような結果となってしまうということです。

この悪循環を断ち切ることをどこかでしないと、怒りに満ち溢れた人生を送り続けることになってしまうわけです。

本人の自覚としては、自分は何も悪い事をしていないしまじめに生活しているのに、どういうわけか腹立たしいことばかりが身の上にやってくるという感覚かもしれません。

誰の心の中にもある怒りという感情をどう取り扱えばいいのか、その理想的な方法を学校や親などからきっちり教わった経験のある人はまずいないはずです。

子供にとって、学校の先生にしても親にしても、回りの大人の誰もが大抵はそのことについて無知であったからです。

つづく

与えるレベル その2

省エネ対策として、ガソリン自動車から電気や水素なとで走る自動車に期待がかかる時代になってきましたね。

そういったクルマはかなり昔から研究されてきましたが、完全を求めるのではなく、現実を見越した折中案とでもいうような自動車、ハイブリッドカーが脚光を浴びてますね。

少し前に我が家でもトヨタのハイブリッドカーに乗っている時がありました。それは、電気で駆動するモーターとガソリンエンジンの両方のいいところを合体させたようなクルマです。

もしも、自分が省エネのクルマの開発をするなら完全な電気自動車や水素自動車などにかかわりたいと思うだろうと想像できます。

これが完全でありたいと求める気持ちです。中途半端が嫌いということかもしれませんが、その真っ白でも真っ黒でもないグレーゾーンこそが現実的な解決策になりえるのです。

与えるということもそれと同じです。自分がすぐに完全な愛の存在になれるわけではないと思うのでしたら、完全さを求めずに自分が自己犠牲なしに与えられる範囲を見出すことです。

このくらいだったら自分のプライベートの時間を割いてもいいとか、このくらいの金銭的なものなら支障はないなどといったことですね。

そして充分に与えることができない自分を責めないということも大切かもしれません。そして、もしも心の余裕がある時には、そのレベルをほんの少しでも超えて与えてみることです。

そうすると、きっと思いがけないようなプレゼントを受け取ることになるかもしれません。勿論それを期待すると与えることができなくなってしまいます。

あくまでも結果を期待しないで与えることに徹するのは言うまでもありません。できる範囲で与え続けることで、知らぬ間に多くのプレゼントを受け取っていることに気づくことになるはずです。

与えるレベル

このブログでは、すでに幾度となく与えることの重要さについてお話ししてきました。心の平安を得て、満ち足りた心になるためには、与えることが大切だということでしたね。

そうはいっても、我々は与えるということに慣れ親しんでいるわけではありません。与えると減るという概念が強いからです。

我々は知らぬ間に、与えるという事と犠牲を強いるということがあたかも一対であるかのような感覚を持ってしまっているかもしれません。

いくら頭で違うと分かったとしても、その癖はなかなかしぶとく付きまとってくるのです。したがって、与えるといっても一体自分はどこまで与える事が出来るのだろうかと具体的に考えてみることはいいことかもしれません。

毎日の自分の生活に支障が出てしまうような与え方をしたいとは誰しも思わないはずですね。 本質的には、与え続けることで初めて本当の愛に目覚めることができるのですが、それは理想的な話です。

より現実的に考えたときには、おのずと自分ができる範囲というものがある程度見えてくるはずです。

極端な例を言えば、あるボランティア活動をするために大切な仕事を退職するということはないでしょう。そして勿論そんなことをする必要はありませんね。

与えることのできるレベルというものがその人の現在の状況によってある程度決まってくるのですが、それはその人が自己犠牲を感じないで済む範囲ということになります。

自己犠牲を強いてしまうと、今度は与えるという愛の行動ではなくなってしまうからです。決して無理をしないことだと思います。

何でも100%でないと気がすまないという人の場合には、与えようとして無理をすることで結局与えられずに終わってしまうということになってしまいます。

理想を追わずに、与えることが続けられるように自分に猶予を与えてあげられるといいと思います。

囲い込み

世の中には第三者の人のことを悪く言ったり酷評して批判する人というのは大勢います。それこそ著名な評論家の方から無名の自称評論家まで様々です。

否定的な事柄というのは最低でも本人に言う場合はまだしも、本人のうかがい知れないような場所などで公表するのはどうなのでしょうか。

そこに愛があればまだいいのですが、恐怖や憎悪ばかりですとどこにもいい結果を生み出す要因を見つけることができなくなってしまいます。

一般的に人はそういう人たちが公表する第三者に対するネガティブな情報を信じやすいものです。有名人のゴシップ記事などが興味を持って見聞きされるのを我々はよく知っていますね。

インターネットが普及するようになって、そうした第三者を糾弾するような情報というのが簡単に一人歩きするようになってしまったとも言えます。

私はそうした人たちに公表された情報がどんなに信憑性のあるものに感じたとしても、酷評された人よりは酷評した側の人の心の闇を感じてしまいます。

そこには大抵怒りや憎悪などの否定的な感情が渦巻いているからです。実は私が囲い込みと読んでいる心の状態がそこにはあります。

つまり、相手への憎悪を持っている自分を正当化するために、味方を作ろうとするのです。相手と自分の一対一の関係では不安なために、そこに別の人たちを巻き込もうとするのです。

そしてできるだけ多くの人たちを自分と同じ気持ちにさせることにより、つまり多くの人たちを自分の憎悪に巻き込むことで安心しようとするのです。

そのとき、一番の被害者は酷評された人よりも巻き込まれてしまった人たちなのです。その人たちはたった一人の憎悪によって、同じような憎悪や裁く心を持たされてしまうからです。

内容がどんなに真実味があろうと、どんなに否定的なものであれ、当事者がそこにいない状態で公表されたものはそれを聞き流すことです。

その内容に同調したり、翻弄されてしまうと自分自身もその内容を公表した人と同じレベルの病みを持ってしまうことになるからです。

理不尽なこと その2

約一年前にとてもひどい理不尽さの中に自分から入り込んだというお話しをしました。その時は、その理不尽なことに対して防衛しようとしてしまう自分ばかりを感じていました。

そして、出来る限りその理不尽さを愛で溶かすことができるようになれたらいいのにということも書いたはずです。

今その理不尽さと一年付き合ってきて思うことは、自分でもうんざりするほど一進一退を繰り返しているなあということです。

正直な気持ちとしては、密かに期待していたようには自分の心が変化してないのではないかと感じています。

残念といえばそうですが、でもそれだけ自分にとってとても難しいチャレンジングなことなのだろうと思って、また気持ちを新たにしています。

この一年の間自分が心がけてきた事は、相手の理不尽さを裁かないでその向こう側にある相手の本当の愛の部分だけを見ようとすることです。

うまく行くときもありますが、自分が相手から裁かれていると感じると、自分の心に少しずつ余裕がなくなっていき、結果としてその理不尽さをどうしても感じてしまうのです。

逆に防衛する必要があまりないと感じる場合には、その理不尽さを通り越して相手を見ることもできなくはありません。

それだけ自分を守りたくて仕方ないんだなということが分かります。理不尽さを感じてしまう気持ちというのは、そもそも自分の中にある信念などを基にして裁こうとする意識なわけです。

従って、理不尽さを愛で溶かすためには、自分の信念や信条というものを手放しておく必要があるということになります。

この心の訓練は一年くらいではとてもマスターできるものではないということがよく分かりました。また来年の今頃にこのことを思い出してどんな思いでこれを読むのか、楽しみです。