催眠下での抵抗

人の心には表面意識と潜在意識の間を仕切っている膜のようなものがあると言われています。それをクリティカルファクターと呼ぶことがあるそうです。

それによって、心の奥に抑圧したものを普段自覚しないで済むようになっているわけです。これは都合の悪い自分の本音や感情を感じないでいられるようにするためには有効なのです。

しかし、本当の自分と向き合おうとするときには、そのクリティカルファクターの存在が逆に邪魔をしてしまうわけです。

通常催眠状態になると、そのクリティカルファクターが緩んだ状態となるため、潜在意識の中に隠されていたものが緩んだ隙間から漏れ出てくるようになります。

そのため、手付かずだった潜在意識の中の本当の自分と対面しようとする時に、催眠状態になることが有効になる場合があるのですね。

そうした期待を込めて催眠療法を行なうのですが、逆に何も思い出すこともできなくなってしまうことが時々あるのです。

カウンセリングの時には、過去の出来事をいくつか思い出していただいて、そのエピソードについてご一緒に見ていくことをするのです。

ごく普通の意識状態では思い出すことができていたのに、催眠状態になった途端に頭の中が真っ暗になってしまって、何も思い出すことができなくなってしまうのです。

これは都合の悪いことを思い出したくないという防衛によって、心のシャッターを閉めてしまうということが無自覚のうちに起きたわけです。

隠しておきたいと思っている意識にとって、催眠状態そのものが危険だと感じ取ってしまうことによって起きるものだと思っています。

こうした場合でも、何度か繰り返し催眠状態を経験していくうちに、次第に抵抗が小さくなっていき、結果として心のひだに隠された大切な本音や感情に気づくことができるようになるのです。

分析心理学

今から10年ほど前、会社を退職する少し前に、ある日本人女性のセラピストの方が書いた本を読んで、ユングの分析心理学なるものがあることを知りました。

それは夢を分析していくことによって、心を癒していくというカウンセリングのようなものです。興味を持って読んだ後に、自分も受けてみたいと思ったのです。

その著者の方が実際にやられている場所がたまたま比較的自宅から近くだったこともあって、通いだしたのです。

元々人の心というものには興味があったということもあるかもしれませんが、今思えばちょうどそういう人生の分岐点的な時期にきていたのかもしれません。

毎回、自分が見た夢の内容を覚えておいて、それを持っていってそのセラピストの方にお話しすることから始まります。

詳しいことは忘れてしまいましたが、単に一つの夢の内容から意味を導き出すというよりは、毎回ごとの夢の内容を連続したものとして解釈していくのです。

ですから、よくある夢判断的なものとは若干趣きが違います。勿論夢以外のことも、必要に応じて自分のプライベートをお話したりもします。

不思議だったのは、あまり話したくないと思って黙っていることなども、回を重ねていくごとに少しずつ暴かれていく感じがしたことです。

そんな中で一つとても印象に残っている夢がありました。それは、自分が生まれ育った昔の家を少し離れたところから眺めているというものでした。

ただ、その家がクレーンに吊り下げられた大きな鉄の丸い塊を振り子のようにしてぶつけられて、破壊されていくというものでした。

私はそれを特別何の感情を感じることもなく、ただ見ているのです。それは、自分の中で大きなパラダイムシフトが起ころうとしていることを意味するということでした。

そしてその分析どおり、私はその後まもなく20年以上にわたる会社員生活にピリオドを打つことになったのです。

かなり勉強しないと夢の解釈は難しいらしいですが、それでも見た夢の内容を日記のように記録することを続けていくと、自然と自分の心の深い部分を知ることができるらしいですね。 ご興味があれば、試してみて下さい。

比較すること

私達は人と人やモノとモノなどを比較してしまう習性を持っています。比較する事によって、それらが別々の個体であるということを証明するわけです。

そして別々の個体というのは本質的に互いに違いがあるということによって明確化されるのです。この世界のすべてが比較することを基本として成り立っているとも言えますね。

確かに地球上のすべての人は互いに違う顔形、姿をしていますし、誰一人として同じ指紋を持っていることはないと言われています。

比較することをしなければ、人を見分けるということもできなくなってしまいます。ですから、比較することの意義は個別性を見出すということであるとも言えます。

ところが、我々は比較する目的としてただそれだけではなく、比較した結果に何らかの意味を見出そうとしてしまうのです。

そこにあらゆる苦悩の元が隠されています。比較した結果、優劣をつけてしまったり、真偽や善悪などを付加してしまうのです。

それが価値の有無あるいは大小を判断することに繋がっていくわけです。私は小学生の頃、学校の給食を食べるのがクラスで一番遅かったのです。

その時の自覚としては、何しろまずくて食欲が湧かないのですが仕方なく食べているという感じでした。そのため唾液が出ずらくて噛んで飲み込むまでに時間がかかってしまったのだと思っています。

ですが、食べるのが友達と比べて一番遅いということに優劣で言えば劣という判断を自分なりに下してしまったのでしょうね。

ゆっくり時間をかけて噛むことは決して悪い事ではないのですが、遅いのは男の子としては何となくみっともないという感じがあったのかもしれません。

意識的に早く食事を済ませるように自分なりに癖をつけていくことで、次第にみんなと同じペースで食事をするようになっていきました。

そして、10代の中ごろになるまでには、普通以上に早く食べるようになってしまっていましたが、そのために慢性的に胃弱になったのかもと思っています。

あの時に食べるスピードの違いには何の意味もないのだということを理解できるような日本の文化であったらよかったのにと思ったりします。

あがり症

人前で何かをしないといけないような時とか、恥ずかしい思いをしたりすると頬が赤くなったりすることがありますね。

それを他人から指摘されたり、自分でも気づいたりすると益々恥ずかしくなってもっと顔を赤らめてしまうことになります。

おとなしい内気な女の子などによくあることですね。私はまだ小学生の頃にそういった顔を赤くする極端な経験をしたことがあります。

床屋さんに行った時に、いつもだったら大して意識することもないはずだったのに、その日はなんだかきれいな大人のお姉さんに散髪してもらっていたのです。

思春期直前くらいの時期だったからなのか、髪を切ってくれているそのおねえさんが自分のすぐそばにいて、じっと自分の頭を凝視している姿を正面の鏡越しに見ていた時でした。

なんだか急に恥ずかしいような感じがしてきたと思ったら、鏡に映る自分の顔がやや赤くなってきたのです。そのことをおねえさんに知られたくないと思ったら、更に赤くなってしまったのです。

そしてまた更にそれを確認してという具合に悪循環となって、これ以上赤くなれないというくらいに真っ赤になってしまいました。

きっとおねえさんもどうしたのだろうとびっくりしたはずです。でも、行き着くところまで行ってしまったと思ったら、徐々に回復していきました。

その体験は本当にびっくりするもので、しばらくは自分がどうなってしまったのだろうと呆然としていたのを覚えています。

そしてそのことはしばらく忘れていたのですが、次に床屋さんに行った時に思い出してしまいました。またなってしまったら困ると思いつつ鏡の前にすわったところ、前回と全く同じような状態になってしまいました。

今思うと軽いパニック障害のような感じだったかもしれません。一度顔が真っ赤にまでなってしまって、もう取り繕いようがないなと思うと不思議に治ってしまうのです。

それ以来またそうなったらどうしようという、予期不安を感じたのも覚えています。その時に自分であみ出した解決法が、事前の深い呼吸法でした。

前もって鼻から深く息をゆっくり吐き出すのを何度か繰り返しておくと、心がリラックスして大丈夫になることを体得したのです。

それ以降はそういった症状を起こすことはなくなってしまいました。こうしたことを起こすからくりというのは、大人のパニック障害と似たものではないかと思います。

症状が軽いものですと、そうしたリラックス法程度で解決することができますが、それで解決しない場合には心の癒しが必要だと思います。

相手に自分は許してもらえるという気持ちになることが、症状から脱出するのにとても有効なのです。そういった無防備に近い感覚は、癒しを進めていくことで実感できるものなのです。

沈丁花の香り

吉祥寺にあるセッションルームの裏手に大きくて立派な邸宅が沢山建っている区域があります。見るからに古くからあるお屋敷ふうの邸宅には、それぞれ沢山の植物が植えられています。

そのうちの一軒の道路に面したところに何本もの沈丁花が植えられているお宅があります。ちょうどお庭と道路を分ける塀に沿って植えられていて、その道を歩くととてもいい香りが伝わってくるのです。

私は沈丁花の香りがとても好きで、毎年今頃の時期になるとそのお宅の前を何度もわざわざ通って、その香りを楽しむことにしていました。

今年もそろそろだと思って行ってみたら、残念なことにそのお宅のあった土地全体がまっさらな空き地になっていたのです。

勿論、その沈丁花も一本残らず撤去されてしまっていました。しばらくじっとして、残念な気持ちを受け止めるのに時間がかかりました。

その場所はセッションルームからも近いし、あまり人通りもないためゆっくり安心して立ち止まって香りを楽しむ事が出来る、自分にとっては最適な場所だったのです。

沈丁花の香りを嗅ぐと、なんと言うか昔の何かを思い出すというのか、そういったノスタルジックな感覚になることができます。

具体的に何かを思い出すというのではないのですが、一種独特な不思議な気分にさせてくれるものがあるのです。

普段そういった気持ちを味わうことはとても少ないので、この沈丁花が咲く時期はいつも楽しみにしているのです。

一番の穴場がなくなってしまいましたが、少し足を伸ばせば5分くらいのところに井の頭公園があり、吉祥寺通り沿いには沢山咲いているスポットがあります。

過去はないとコースで何度も教えられてはいるものの、あのなつかしい感覚は理屈抜きに好きですし、忘れたくはないと思っています。

自責のメリット

一ヶ月ほど前にこのブログで、自分を責め続けるメリットについて書きました。その時には、自分を責め続けていると、誰かを憎んだり恨んだりしている見たくない自分の本心に気づかずにいることができるというお話しをしました。

しかし、自分を責めてしまうことによるメリットというものは、実はそればかりではありません。そこには、それこそ沢山のメリットを見出すことができるのです。

例えば、誰かに責められる前にまず始めに自分で自分のことを責めておく事によって、人に責められたとしてもダメージを最小限度にとどめることができるというのがあります。

予め最悪の状態を予期しておいて、ショックをできるだけ小さくしようとする作戦なわけです。これは幼い頃に親に怒られる前に自分で自分にダメ出しをする子供の心と同じです。

また、元気な自分でいるよりも自分はダメなんだと責めている状態の自分でいる方が、周囲にやさしくしてもらえると思っている場合もあります。

これは通常の肉体的な病気になって、いつも怖くて冷たい親に優しくしてもらおうとする幼い子供のやり方と同じです。

こういったメリットというのは、単独で使われる場合もありますし、複数のメリットを同時に享受しようとして自責する場合もあります。

そして、実はそうした自責する心の部分というのを、影で糸を引いている黒幕のような意識があるのです。

それは様々な心の断片に自分を責めさせておいて、ある本質的なメリットを得ようとする意識なのです。

その目的は、自責する心が幸せになることはないと分かっているので、自分を不幸な状態に置き続けることで自らの存続を図ろうとするのです。

それがエゴなのです。エゴは自分で自分を徹底的に責めさせておいて、そこから自分を防衛しなければならないとして、エゴ自身を殺さないように仕向けるのです。

自責の念はどんな理由があるにせよ、その理由はエゴが勝手に後付けで作ったものなので、それを信じないことです。

もしも、自責の念があると自覚があるのでしたら、その意識に乗っ取られないようにして、中立な自分の意識で自分を裁かないで見るトレーニングをすることが大切です。

継続すること その2

継続といえば、「奇跡のコース」という本にワークブックという部分があって、それは365課分の課題が納められているものです。

一日に1課づつを毎日続けて実践することによってちょうど一年で終えるように用意されたすばらしいワークブックなのです。

私の場合は、一昨年の9月1日より開始して、昨年の8月31日で終えたのですが、その間の一年はとても充実していたと思っています。

ここで内容を詳細にお伝えすることはほとんど不可能に近いのでそれはあきらめますが、自分にとっては1課1課が何と言うか宝石のような言葉ばかりだったのです。

内容を熟読して、その日の課題となる言葉を覚えて、それを決められた回数と時間だけ繰り返して心の中で実践するのです。

朝起きてすぐにその課題を読み始めることからその日一日が始まるのです。それが少しも面倒でも辛くもありませんでした。

瞑想しながらワークの言葉を唱えたりすることが自分にとってはとても楽しい体験なのです。こうしたものは、好みの問題が大きいのでしょうね。

ちなみに、記念すべき第1課の言葉は、「自分が見ているものには何一つ、なんの意味もない。」というものでした。

自分の外側に繰り広げられている世界やそこで起きている事柄というのは、自分自身がそれに意味付けをしているということに気づくということを目的としているのです。

そうやって、毎日様々なワークを与えられて、嬉しくて、感謝しながら気がついたら一年が経っていたという感じでした。

ここでも継続することが大変だとは一度も思ってもみなかったのです。自分が楽しい気持ちであれば、続けることはたやすいし当たり前のことなんですね。

継続すること

自分の人生を顧みたときに、何一つとしてモノになっていることがないというのが正直な気持ちです。その理由は続けることが苦手というのがあるからだと思っています。

楽器を習っても、趣味を見つけて楽しむことができたとしても、これを自分の仕事にしようと決意しても、それが続いたためしがありません。

それどころか、健康のことを考えて朝起きたらコップ一杯の水を飲む、寝る前に柔軟体操をするなど、とても簡単なことであったとしても決して続いたことがありません。

いろいろこうしてみよう、これをやってみようと思いつくことはあるのですが、それを長く続けるということができないのです。

継続は力なりという言葉を知ってはいますが、自分には縁遠い言葉だなとずっと思っていました。続けられる人は一芸に秀でた人だし、何かを成し遂げられる人なのだろうと思ってきました。

ところが、最近その気持ちが少し和らいできたように感じています。このブログを書き出して今日でちょうど一年になります。

書き始めたときにはまさかこれが毎日のように淡々と一年もの間更新し続けられるとは全く思ってなかったのです。

でも実際続けることができてしまった今、続けることはそんなに大したことではないのではないかと感じています。

自分の何かが変わったとも思っていませんし、当然何かを成し遂げたという感覚などありません。ああ、そんなものなんだなと分かりました。

継続は確かに力なのかもしれませんが、でもそれだけのこと。それよりも、人は何かを成し遂げる必要などないということが分かったかもしれません。

それが身をもって分かっただけでも続ける意味はあったのかもしれません。

対等な関係

人と人との関係性あるいは係わり合いにおいて、基本となるものはすべての人は互いに対等であるということだと思います。

家族や職場の中でそれぞれの立場や役割というものが決まっている場合であっても、本質的には人と人とは全く平等であるわけです。

それが人間の尊厳というものかもしれません。その人がどんな生まれや育ちであったとしても、財産や学歴が違ったとしても人一人の価値というものに違いはないからです。

ところが、この当たり前の対等な関係というのを理解できていない場合が多くあるのです。それはやはり幼い頃の親との関係性に根ざしています。

親の心が見捨てられる恐怖を強く抱えていると、自分の子供に対して一人の人間としての見方をすることが難しくなってしまうのです。

そうした親は、子供を自分の一部のように感じてしまったり、場合によっては可愛いペットやお人形であるかのような扱いをしてしまったりするのです。

そのように育てられてしまうと、その子供は自分の人間としての価値や尊厳というものに気づくことができないままに成長せざるを得なくなってしまいます。

そうすると、成長して学校や職場などでの人間関係において、対等な関係性を築くことができなくなってしまう可能性が高くなります。

その傾向は人との結びつきが深くなればなるほど強くなっていきます。そして、自分自身に対して何らかの役割を与えて周囲の人との関係を築くのです。

その場合には勿論相手に対しても何らかの役割というものを無意識的に与えてしまうので、その役割を相手が充分に演じられないと不満が噴出することになります。

人と深くかかわるということはそういったことでしか成しえないと思ってしまっているということです。誰とでも対等でいるということは、何の役割も互いに与えられてない素の状態のままでいるということです。

自分の人間関係は対等な感覚があるかどうか、不思議な上下関係に支配されていないか、チェックしてみることは大切なことです。

そして対等さに欠けると思われることがあるのでしたら、幼い頃の親との関係を洗いなおしてその時の自分の生き方を見つめなおすことが必要です。

過去世の記憶

長い間催眠療法をやっていると、沢山のクライアントさんが様々な内容の過去の記憶を見せてくれます。一般的には今回生まれてからの、特に幼い頃の記憶を再現してもらいます。

しかし、時々知らず知らずのうちに過去世と言われる別の人生の記憶が蘇ってくることもあります。場合によっては、過去世を思い出すことを目的としてセッションを受けてくださるケースもあります。

どちらにしても、過去世とか前世と言われるその人の別の人生の記憶というのは、常識的に考えると何とも不思議なものですね。

いわゆる輪廻という生まれ変わりの有無について、それを否定することもその実在を証明することもできません。

私の個人的な気持ちとしては、この現実が幻想であるというコースの教えのことを思い巡らしたときに、輪廻についても同様のレベルで捉えることにしています。

つまり、私達が通常把握できる事実とか真実というレベルというものは、それを追求していくことには意味がないという考え方です。

言葉を変えて言えば、真偽のほどはどちらでも構わないということになります。これはどちらかに答えを出すことから逃げているということではありません。

所詮幻想の中でのことですので、その中での真偽についての議論そのものに意味がないという考え方です。

個人的には過去世の記憶を使って、本人の心が癒されるのであればそれはすばらしいことだと思うのです。それ以上でもそれ以下でもありません。

経験上、本人が思い出す過去世の記憶には、その時の本人にとって何らかの気づきを得るための大切なヒントを与えてくれるものではないかと思っています。

それに過去世には何かファンタジーのようなものを感じることもできますね。そして、思い出したことを否定せずにそのままを受け入れるほうが心が豊かにもなるのではないかと思っています。