決断は必ずやってきてくれる

人生の中で、少し大きめの決断をしなければいけない時ってありますよね。たとえば、転居とか、結婚・離婚、あるいは就職・離職など…。

すぐに決断できてしまう場合もあるかもしれませんが、なかなか決断できずにウジウジしてしまうこともあるはずです。

決断するに当たって、その決め手となる要素があまりにも多過ぎて、混乱してしまうとどうしていいのか分からなくなってしまうのです。

こっちを立てればあっちが立たず、あっちを優先すればこっちがそこなわれ…、といったように決断が先延ばしになるのです。

そんなときには、ほぼ間違いなく「決断したくない」と思っている部分が大きいのだと気づくことです。現状維持を希望しているのだと気付いてあげること。

理屈では決断できない理由はいくらでも見つけられるのですが、実はどんな理由があろうとも、「決断したい」が優勢になったときには、即決できるのです。

だから決断できずにいるとしても、そんな自分を受け止めてあげることです。そして心静かに、決断がやってくる足音に耳を傾けていることです。

いずれは100%決断はやってきてくれるのですから。

思考というスモークが真実を隠す

あなたが内側に入ってゆくと、ただちに頭が無数の思考を分泌する。とたんに膨大なエネルギーがどっと思考に流れこむ。あなたが内奥の<無>を見ることができないように雲を創りだす。あなたは見たくない。見入ることは自殺することだ–エゴとして、自己として自殺することだ。

by osho

人を騙すときに使う言葉で、「けむに巻く」というのがありますが、煙を起こして肝心なところが見えないようにすることで、騙すわけです。

マジックショーなどのステージで、スモークが焚かれることがよくあると思うのですが、幻想的な雰囲気を醸し出すだけでなく、注目されては困るところを煙りで見えないようにしているのです。

それと同じことが、マインドの中で行われているということです。自分の本質を見ようとして、内側深くに入っていこうとすると、思考という雲が張り出してくるのです。

だから毎日瞑想をしていても、真に核心に迫るところまで見通すことができないのです。エゴにとって、どうしても隠さなければならないのです。

偽物、作り物、幻想を暴くのは原理的には非常に簡単。ただそれを真正面から見てしまえばいいのです。

幻想であることをひた隠しにせねばならないエゴにとって、思考の雲は絶対に必要なスモークなのですね。

「私」という存在は幻想なのだと見破ってしまったときに、自動的に「私」は消えていくことになるのです。

一度見破ることができたなら、もう思考はただのツールとしての役割をするだけになるのですね。

この世界は仮想現実!?

現在、世界最高の起業家として有名なイーロン・マスクという人物を知っていますか?電気自動車のテスラ・モーターズの創始者としても有名ですね。

彼が、TEDでの講演で、この世界がバーチャルリアリティでない確率は限りなくゼロに近いということを言ったそうなのです。興味深いと思いませんか?

つまり私たちが現実だと感じているこの世界全体が、仮想的なものだとほぼ断定しているということです。

気になったので少し調べてみたのですが、どうやら言いたいことは次のようなもののようです。

バーチャルリアリティのゲームを作る際に、必要となる画像なり情報だけをプログラミングして、それ以外の部分はメモリの節約のために不定にしておくという事実があるのです。

そのことが、コペンハーゲン解釈として知られている理論と同じものと捉えたようなのです。コペンハーゲン解釈というのは、簡単に言えば人間が知覚することで物事が確定するという理論。

私は両方とも知っていたのですが、両者を結びつけようとする発想がありませんでした。やはり天才は考えることが違うようですね。

この現実が仮想現実かもしれないというのは、そういう意味ではバカバカしいと言って切り捨てることもできないのです。

ただし、だとしても仮想現実であるという物語であることには変わりはありません。

ただ、見守ること!

仏教は言う、見守りなさい!と。生のあらゆる瞬間を、注意深さにおける体験にするがいい。苦痛も快楽も何もかも、愛も憎しみも何もかも、善も悪も何もかも。見守りつづけなさい。ひとつの風味をあなたの存在に広めなさい。すると、人は両極の中間にあって、完全にバランスが保たれるようになる。

by osho

どれだけ実践できるかどうかは別として、結局自分にとって最後に残ること、一つだけ伝えたいことがあるとするなら、↑これなんだなと…。

えっ?じゃあ私は仏教徒ってことか?と思ってしまうのですが、誰かが作ったいわゆる宗教にはまったく興味がありません。

「ただ、見る」ということ以外には何もないのです、以上!で終わりにしてもいいのですが、それだと分かりずらいのです。

だから、やれ瞑想がいいとか、そこそこ癒しをする必要があるとかの話しになるのですね。要するに、見守ることで物語から抜けることができるということ。

瞬間瞬間の注意深さは、ストリームである物語の中に巻き込まれずに済むのです。ストリームは時間であって、瞬間は時間ではないからです。

けれどもその注意深さを長続きさせるためには、ある程度の癒しが必要なのです。瞑想する余裕がなければ、すぐに思考(物語)に丸め込まれてしまうからです。

ずっと目を閉じて孤りで瞑想しているような人生は稀です。だから、日々のごく普通の人生から逃げずに、見守ること。これが究極なのですね。

より手軽な瞑想法

くつろぎなさいと言うとき、私はすべての目標を落としなさいと言っている–。いっさいの理想を落とすのだ。くつろいでこの瞬間に入ってゆきなさい・・この瞬間に耳を傾けなさい。この瞬間を生きるのだ。それを味わいなさい。すでにここにある現実に取り巻かれているがいい。

by osho

瞑想というと目を閉じて無念無想、あるいはマントラをひたすら唱えるなどを連想するかもしれませんが、↑このような方法もより現実的な瞑想法なのです。

というのも、わざわざ瞑想のために時間を割いたり、場所を選んだりする必要もなく、いつでもどこでも手軽にできるからです。

朝起きてまだぼんやりしているとき、あるいは通勤の電車の中で、慣れてくれば会社のミーティング中にでも可能になるはずです。

「ここにある現実に取り巻かれている」うちに、今度は取り巻いている周囲と、取り巻かれている自分との区別が消えていくのです。

そうして一切の個別性が消えていき、分裂したナニモノもないという気づきがやってきます。同時にさっきまで分からなかった至福感もやってきます。

そこではどんな物語も生き延びることはできません。そしてより大切なことは、現実の物語の中に戻っていくときに、この感覚を忘れずに携えていくようにすること。

切り替えないこと。それができるなら、いつも瞑想状態でいられることになるからです。一方では物語の中にいるふりをし、もう一方では完全な無と共にいるということ。

「所有」が人を苦しめる

「所有」という概念が人を苦しめることになるということに、気づかないでいることが多いのかもしれません。

そもそも、この「所有」というのが幻想であるということに気づいていないのです。だから所有欲という欲望が生まれるのです。

もしも所有がなければ、執着もやってくることはありません。自分が所有していると思い込んでいるものに対してのみ、執着心が起きるからです。

同じようにして、所有がなければ喪失感というものもないのかもしれません。ではなぜ、所有という幻想が必要なのでしょう?

それは、所有することが一過性の安心を与えることができるからです。所有することで、不安や孤独感をごまかすことができるのです。

そしてごまかし続けたいがために、所有していると信じているものへの執着がやってくるわけです。

「所有」とは一種の契約であって、それ以外ではないのです。真に何かを所有することができるとしたら、それは自分自身でしかありません。

もう一つ所有の問題点は、そのターゲットは必ずモノだということ。モノだけが所有できるのです。だから、人を所有することはできません。

恋人に執着しているとしたら、その人をモノ扱いしているということです。だから執着されると気持ち悪いのです。モノに落とし込められているからです。

自分が所有していると思い込んでいるすべてを解放することです。そうすると、自然と存在への尊重がやってくるはずですね。

抑圧された本心を見つけてあげる

最近インターネットテレビを観ることが多くなりました。地上波のテレビと比べると、規制が少ないということもあって、これまでにない面白さを感じるのです。

その自主規制の少なさを最大限利用するような番組があって、それはサイテーな男たちを集めて、どのようにサイテーなのかを話し合うというシンプルなもの。

これがことの外興味深いのです。二股三股なんて当たり前。女性を性の対象としてしか見ていない、あるいはお金を持ってくる対象としてしか見ていない男たち。

さっきまで一緒に過ごしていた女性に対して、何だか面倒になったと思ったら、「帰っていいよ!」と冷たく追い出す等々。

女性をまるでモノ扱いする言動を恥ずかしげもなく表現しまくっているのです。まったく悪びれる様子もなく、ただ非常に明るい。

その明るさがまた際立っているので、面白いのでしょうね。あれが暗い人たちばかりだったら、番組としてまったく成立しないはずです。

自分がなぜ面白がって見入ってしまうのかと言えば、きっと自分の中にもそのように自由にやりたい放題したいと言っている部分があるのだろうと。

それが隠されてきただけで、エゴの本性を剥き出しにしてみたいのだと気づいたのです。普段は気づかぬふりをして、理性的に生きているのですが、そういう子供じみた欲望があるということ。

それが疑似体験させてもらえる番組だったということですね。自分の内面に関心を持っていることができれば、気づきにくい小さな心の声も逃さずに見つけることができるのです。

見つけてもらえると、その部分が喜んでいるのが分かります。そうやって、どんな自分の本心であれ、ありのままに受け入れてあげられると楽になりますね。

人生は見通せない

若い時には、自分が結婚して家庭を持つということをイメージすることができませんでした。ましてや子供の親になるなんて似つかわしくないと感じていたのです。

けれども時期が来るとそうしたことが自然と起きて来るのです。但し、やっぱり予想していたように、それが起きたからといって自分が変わることはありませんでした。

だからこそ予想できなかったのかもしれないと思うのです。仕事はずっと会社員のままだろうと思っていたのに、ひょんなことから想像もできない仕事をするようになってしまいました。

明確ではなかったにせよ、きっと自分の人生はこんな風になっていくに違いないという予想が相当に外れて行ったのです。

だから未来を予想することに、ほとんど意味はないと思うのです。というよりも、予想してしまうと可能性の広がりを狭めてしまうような気さえします。

人生がどうなろうとも、それがやってきたならそうなることになっていたという感覚でいることがとても大切なのですね。

今となっては、自分の意思なんて少しも関わってはいないということが分かるのです。その時々には、自分で決めたことだと思い込んでいるのですが、後になってみると、起こることがただ起こったという感覚なのです。

人生を見通す必要はありません。元々そんなことは不可能なことだし、無駄骨でしかないからです。未来は、未来が何とかしてくれるのです。それを信頼することですね。

真実とは純粋な意識のこと

真実って何?って自分に問うた時に、答えとして帰ってくるのは「常にここに在るもの」なのです。

それは透明で、静寂で、広大無辺で、一つもの。それをいつどこで何をしていても感じることができれば、それが瞑想だと思うのです。

たとえば、お気に入りの音楽を聞いている時に、同時に静寂を聞いていられるかどうかということです。

音楽に限らず、どんな音であってもその音の背後にあってそれを支えている静寂を同時に感じていられるようなもの。

誰かと会話をしている時に、互いに全く言葉を発しないでいるあの静けさに同時に気づいていられるかどうか。

物語の中に住んでいながらにして、いつもその物語の背景である「無」に気づいていられるかどうか。映画で言えばスクリーンの存在に気づいているということ。

こうした気づきは、あまりにも思考に巻き込まれ過ぎて、無意識的になってしまうと分からなくなってしまうのです。

だから、真実とは常にここに在る純粋な意識のことなのですね。

どんな人生だって構わない

人生は思考が作った物語だということを見抜くことができないと、その物語の内容を評価するようになってしまいます。

人と仲良くできるのかできないのか、友達が沢山いるのかいないのか、収入が多いのか少ないのか、社会に役立っているのかいないのか…。

素晴らしい家族を持っているのかいないのか、羨望の的になるような仕事をしているのかいないのか、価値あるものを創造しているのかいないのか…。

熱意を持って物事に向かっていくのか行かないのか、健康な身体を維持しているのかいないのか…。

楽しみを沢山持っているのかいないのか、不安や孤独に苛まれているのかいないのか、恋人がいるのかいないのか…。

結婚しているのかいないのか、子供がいるのかいないのか、性格が温和なのかそうでないのか、罪深いのかそうでないのか…。

瞑想が上手くできるのかそうでないのか、心が癒されているのかそうでないのか、外見が美しいのかそうでないのか…。

数え上げればきりがありませんが、このようなことは本来どうでもいいことなのです。人生の中にはどんな目的も意味も価値も何もないからです。

100歩譲って、人生物語に意味があるとしたら、それはそれを物語だと見抜くだけの意識的な在り方ができていることです。

実はそれすら本当はどうでもいいこと。ただ、今この瞬間に在ること以外には何もないのですから。