信念と不信は同じもの

「何事も信念を持ってやるべき」と教えられて育ったように記憶しているのですが、心のどこかで何となく自分にはそぐわないと感じていたことを覚えています。

一般的には、信念を持てば、一本筋の通った人になれるし、強くなれるイメージがあって、子供にとってはそういう大人になりたいと思うのかもしれません。

けれども、信念というのは単に信じることなのです。より正確に言えば、強く硬く信じるということです。

だから信念を持ってしまうと、人は頑なにならざるを得ないのです。信念は揺るがないので、人とぶつかるわけです。

私は個人的にはどんな信念も持ちたくないと思っています。信じるなら、いつでも信じないにひっくり返るくらいの準備をしておきたいくらいです。

実際、信念(強く信じること)と信じないことは真逆ですが、本質的には全く同じことなのです。

マインドの中で起きていることは、どちらも一つの仕組みを使っているのです。それは、真に知らないことに対する自分騙しの方策なのです。

もしあなたが、何かに対して真に知っているとしたら、それに信念を持つことなど不可能であるのは明白です。

そこに気づけたなら、今日からどんな信念も脇に置いて、ただ知らないことだと認めるのです。それだけでどれほど防衛が小さくなるか、体験してみて下さい。

自分を信じてあげる?

自分のことを信じることができないと言って、嘆く人がいますね。自分の考えや自分の感性などを信じることができないのは、確かに生きづらいでしょうね。

自分はこうだと思っていたとしても、それと異なる意見や反論をされてしまうと、あっという間に自分が主張していたことに自信がなくなるのです。

あるいは、自分に似合う服を自分で探すことができなかったりするのです。なぜなら自分のセンスに自信がないからですね。

だから、何であれ自分に自信を持つことを練習しましょうということになるわけです。誰が何と言おうと、自分だけは自分のことを信じてあげる。

これができるようになったら、何事にも毅然とした態度でいられるようになるかもしれません。

他人の意見によって、ブレない生き方ができるようになるのですから、随分と生きやすいはずです。

けれども私が思うに、自分を信じられないことと自分を信じることは本質的には同じことなのです。

自分を信じたり信じなかったりする対象として扱うよりも、ただ受け止める対象として見守ることができたら、すぐに非二元の感覚を手に入れることができるはずです。

ジャンプする勇気

もう随分前のことになるのですが、あるバラエティ番組で高さ10メートルの飛び込み台からプールに飛び込むまでの時間を競うというのがありました。

ターゲットとなるタレントさんは、確か目隠しをされて何の説明もされないままに飛び込み台の上まで連れて来られるのです。

そこで突然目隠しを外されて、そこから時間の計測がスタートするのです。何が起きているのか分からないままに、時間だけが過ぎていくわけです。

そしてなるべく早い時間で、飛び込まなければならないことを理解するのですが、10メートルの高さにビビって、なかなか飛び込めないのです。

人によっては、30分、50分かかる場合もあったと記憶していますし、最後まで飛び込むことができなかったという人もいたはずです。

私はあの番組を見ていて、私たちの人生と似ているかもしれないと思ったことを覚えています。

私たちも、心の奥に隠し持っている惨めさや深い悲しみなど、そして究極的には自分は空っぽだったということを正面から見ることをずっと先延ばしにしてきたのです。

そしてそれは今もまだ続いているのです。いつ飛び込み台からジャンプするのか、いつでもいいとも言えるし、早ければ早いほどいいとも言えますね。

覚者は世界なしで生きる

私たちは、みんなでこの地球、この世界を共有していると思い込んで生きているのです。世界は一つだと信じているからです。

けれども、実際には個人個人が別々の人生を創って、その世界の中で生きているのです。私の世界とあなたの世界は違う世界なのです。

あなたがあなたの地獄を創り出し、あなたの天国を創り出すのです。それは、私の世界にある地獄や天国とは違うものなのです。

このことに気づいていないと、軋轢が生じたり、争いや揉め事が起こるのも当然のことだと分かります。

逆に、全く異なる世界でそれぞれが生きていることにしっかり気づくことができれば、考え方がすれ違ったとしてもそれを受容できるのです。

個人と個人が真に分かり合えるということはないのです。他人とは残念ながら自分の世界からは遥か遠くにある別の世界の中で暮らしているのですから。

ただし、一時的であったとしても個人としての自己が消えているときには、融合が起きて本当に一つになっていられることもあるのです。

つまり自我がないときということです。その時だけは、すべては一つという愛の状態に戻ることができるのです。

覚醒して自我が落ちてしまった人は、もう独自の世界を創ることもなくなってしまい、その人は世界なしに生きることになるのですね。

苦手な人々

私が苦手だと感じる人は、一位が聖職者、二位が政治家、三位が学者です。私が勝手にそう感じているだけで、特定の誰かのことを指すことはありません。

とはいうものの、聖職者の第一は飛び抜けてダントツ一位なんだなと思うのです。そもそも宗教家なんていう言葉があること自体、馬鹿げているのです。

私は特定の宗教に興味があるということもないし、かといって無宗教というわけでもない、つまりどちらでもないのです。

そもそも宗教というのは、どこかの団体のものでもないし、何かの組織と関係があるわけでもありません。

真の宗教というのは、あくまでも個人的なことであって、言葉などで人に伝えられるようなものではありません。

だからみんなで分かち合うなどということもできないのです。おのれの奥深くに入っていって、たった独りで見出すものなのです。

もしも孤独から逃げ回っているなら、いつまでも見出すことなど不可能なことだと知ることです。ましてや、どこかの組織に加入すれば何とかなるなんてことはないのです。

聖職者は、概ね権威を持ってしまっているので、宗教とは無縁の人々だと言わざるを得ませんね。

特別でありたい病

自我というのはすべからく、自分は特別でありたいと願っているのです。特別であることに猛烈に魅力を感じるのです。

それはなぜでしょうか?特別であることによって、自分という存在が際立つことになるからです。それは不自然なこととも言えますね。

自然というのはあらゆるものがあらゆるものと融合して、特定の特別さのないごく普通の世界なのです。

したがって、自然の中で溶けてしまえば、自我は存在が消えていってしまうということを知っているのです。

自我の持っている唯一とも言っていい根本的な望みとは、自分は存在しているということを証明し続けることなのです。

その理由も簡単、それは本当のところ自我という存在はないからです。実在しないからこそ、存在しているという思いを維持しつづけなければならないのです。

だから特別でありたいと常に渇望しているというわけです。ひとかどの人物であろうとしたり、一番であることにこだわったり。

誰よりも愛されたいと願うのも、特別視してもらって安心したいのです。それがどれほど不自然なことかに気づくだけでも、自我はその力を失っていくことになるのですね。

マインドはコンピュータ

現在一般に普及しているパソコンやスマホなどのコンピューターシステムというのは、入力データを入れると決められた演算結果を出力するというものです。

非常にざっくりした言い方ではありますが、間違いではありません。つまり、入力(原因)があって、演算したものを出力(結果)するのです。

それはもう寸分の狂いもなく、入力に応じた出力が導き出されるのです。だから安心して使えるというわけです。

そこにはどんな気まぐれも奇跡もなく、何度同じことを繰り返しても正確に結果が出てくるのです。

実は、私たちの内面、つまりマインドについても同じことが言えるのです。マインドはそれなりの仕組みを持っていて、それがコンピュータで言うところの演算と同じ役目を果たすのです。

ですから、原因となる体験をマインドに与えてあげれば、マインドはその仕組みを使って正しい結果を出してくるのです。

コンピュータとマインドの違いは、入力情報の量の違いが半端じゃないということ。マインドに与えられる入力データは物凄く大量なのです。

それともう一つの違いは、普通コンピュータシステムは進化しないのですが、マインドは演算方法が入力データによってマインドごとに変化するのです。

その結果、各人のマインドの働きがそれぞれに違ってくるのです。人間とは不可解なものだと思っている人が多いかもしれませんが、実はマインドは不可解なものではないのです。

このことに気づくことができると、自分のことも人のことも冷静に見てあげることができるようになるのですね。

人は騙しても自分を騙すな

この題名は少々過激な感じがしますが、ものすごく大切なことを言わんとしているのです。それはこういうことです。

つまり、私たちのマインドが病んでいく根っこにあるもの、それは自分自身を騙すという手段による防衛なのです。

自己防衛のために、他人を騙す、他人に嘘をつくということは当たり前のように知られたことですね。

そうしたことは、特に褒められるようなことではないかもしれませんが、それでも自覚を持ってやっているのなら、病むことは少ないのです。

けれども、自分を騙す、あるいは自分に嘘をつくということになると、途端にそんなことが本当にできるのか?と思う人もいるのです。

マインドは自分を騙したり、欺いたりすることに非常に長けているのです。まずはそのことに気づかねばなりません。

たとえば、本当はすごく嫌だと思っているはずなのに、実際にはそれほどでもなかったと思うようなことは多々あるはずですが、そんな時は注意が必要です。

大抵は、自分の本当の気持ちを騙して、大したことはなかったと感じさせるようにしているということです。

そういうことの積み重ねによって、自己犠牲も積まれて行き、それが内面を病んでいく原因になるのです。

意識的であるということは、自分を騙すようなことがないように随時見張っているようなものと思ってもらっても構いません。

私自身は、人に嘘をついてはいけないといった道徳にはあまり興味がありません。嘘も方便ということもあるし。

けれども、繰り返しになりますが自分に嘘をつくと、人生が破壊されてしまう可能性が大になるということは忘れないで欲しいと思うのです。

初めに自分ありき?

自分の身体のルーツは何かと言えば、始まりはたった一つの受精卵だと言えますね。それは単細胞だったわけです。

それが細胞分裂を繰り返すことで、トータルで数十兆個の細胞を持った一人の肉体にまで進化したのです。

そこは、はっきりしていますね。では一方で、自分というマインドのルーツはどうなのでしょうか?

身体という物質の場合は分かりやすいのですが、マインドとなると途端に難しくなってしまいます。

とはいうものの、大人になった今から時間を遡って行けば、事の始まりはやはり両親の間に挟まった自分がいたのだと想定できます。

そこでさまざまなことを教えられ、日々学び、ときには洗脳されたのではないかと思えるくらいに強引に知識やルールを押し付けられたりもしたかもしれません。

けれども、もっと前はどうなのでしょうか?私たちはいつも自分ありきで物事を見る習慣がついているのです。

仮に洗脳されたとしても、洗脳される自分がそこにはいるということが前提なのは明らかですね。

そこに誰もいなければ、どうやって洗脳されたりルールを教え込まれたりできるというのでしょうか?

このことを突き詰めて考えていくと、どうやら自分というのは当初いなかったものが、気がついてみると自分がいるという具合に奇跡的な変化を遂げたのです。

でも良く考えてみてください。いるものはいるし、いないものはいないのです。物質では可能であっても、自分がいるということが変化するのはありえないことです。

つまり、生まれたときに自分がいなかったのが明らかであるなら、それはいつまでたってもいないままであるのが道理なのです。

もうお判りだと思いますが、結論として始めに自分はいませんでした。ということは、今この瞬間も自分という個人など本当はいないということになるのです。

いるという思いはあるけれど、実在するものではないということです。実在しないものが死んで消滅するということも不可能なことですね。

正直になってみる

人間というのは、他人のことは騙せても自分を騙すことなどできるはずはないと思っているのかもしれません。

だとすると、あまりにもマインドのことを知らなさ過ぎますね。マインドが病む一つの大きな要因として、自分を騙すということがあるのです。

自分を騙すことでその場を何とかやり過ごしているうちに、それが常態化してしまい、ありのままの自分の感覚や気持ちまでもが分からなくなってしまうのです。

たとえば、自分は孤独だということをマインドは知っているのですが、それがあまりにも辛すぎるために、自分は独りではないとして自分を騙すのです。

自分には家族がいる、自分には好きな人がいる、自分にはこれだけの友達がいる、だから自分は孤独なんかじゃないと…。

けれどもそうやって騙している限りは、全体性のあの感覚を身をもって感じることなどできないのです。

なぜなら真実を身近に感じるためには、自分の中に偽りがあってはならないからです。結果がどうあれ、自分にできるだけ正直になる必要があるのです。

それが全体性や至福の中にいられるための、必須要件なのです。偽りという自我が活性化していれば、真実は遠ざかる一方だということですね。