私たちは、自分の心が嵐のように荒れ狂っている状態よりも、穏やかな平安な状態でいることを望んでいるものです。
誰かに酷い言葉をかけられたり、理不尽なことをされたり、身の危険を感じたりすれば、当然心は激しくみだされてしまいます。怒りで身体が震えてしまうかもしれません。
そうしたことは、二度と起きて欲しくないと思うので、できる限り心の平安を願って生活しているわけです。
けれども、この平安というものがなかなかのクセモノなのです。一般的には、平安というよりも安心を求めているといったほうが正確な表現である場合が多いのです。
そうした安心とは、裏を返せば未来に対する不安感を何とかしたいという思いなのです。未来に意識が向いているということは、過去からやってくる思考に巻き込まれているということです。
したがって、思考に目を向けずにいるだけで不安は解消するはずなのですが、それは決してしたくないのです。
つまり、安心したいと思っているといっても、それは単に自分に都合のいい状態を求めているに過ぎないということです。
それは、戦いに勝つこととか、欲しいものが手に入るとか、自分は否定されることはなく、愛されている、認められているということなどです。これは、本当の平安ではありません。
つまり、過去や未来に意識が向いた状態での安心であり、今この瞬間に意識が向くことによる平安ではないということです。
そうした意味で言えば、安心とは一過性のものであるということです。つまり、戦いと戦いの間の休戦状態と同じものです。
一方で、真の平安とは永続的なものであるということです。そこには、時間は入る余地がありません。何も無いということが、時間を排除してしまうのです。
こうした真の平安を求めても、それを求めている間は手に入れることはできません。なぜなら、その求める心が思考から出来上がっているからです。
平安を求める代わりに、ただの存在性と共にくつろぐことによって、それは起きるのだろうと思うのです。