意味付けに意味はない

私たちは何に対しても、尤もらしい意味を付けたがります。この話題は、このブログでも過去に何度も繰り返してきました。

意味づけとは、ただ起きていることに対する思考です。また、何も起きていなくても、思考によってその内容に意味づけすることさえできます。

例えば、数字というものはこの世に実在するものではありませんね。それは単なる思考の産物であり、そういうものを概念とか観念と呼びます。

そうしてできた架空の数字を使って計算するという、これまた思考を働かせることができます。そして、その計算結果が正しいとか間違っているという具合に、思考が連鎖していきます。

私たちが何か外側のものを認識するときには、知覚を用いますが、それは単に外界からの情報取得だけではなく、そこに意味づけする思考が後に続きます。

したがって、知覚するということの中に決まって思考も含まれてしまっているということです。そのために、あるがままを見るということができなくなっているのです。

「目の前にコップがある」というとき、これは事実だと感じてしまいますが、それは知覚からやってくるものであり、それは思考です。

目の前にあるものをコップだと判断するのは、思考によってしかできないからです。このことから類推できることですが、思考が停止すると通常の知覚ができなくなります。

だからこそ、深い瞑想のあいだにすべてのことが分からなくなり、上下左右前後が不覚になるのもうなづけるというものです。

そこにコップがある、は思考であり、「ただ在る」が真実です。でも、もしも「ただ在る」という言葉の中に入ってしまえば、それはすぐに思考になってしまいます。

意味を求めることが悪いということではありません。ただ、思考によって意味付けし続けているということに絶えず気づいていることが大切です。

そうすれば、意味付けを否定せずにそれから離れていることができます。意味づけに意味はありません。そこにこそ、真の平和があるのです。