「自分」という中心人物

このブログでも、もうすでに何度も繰り返して書いていることなのですが、来る日も来る日も毎日の人生はすべて、自分を中心に回っているといえます。

自分が喜んで、自分が退屈して、自分が考えて、自分が感じて、自分が決意して、自分が苦しんで、自分がどうしようと悩むのです。

とにもかくにも、自分、自分、自分なのです。どんなすばらしい本と出会って、その内容に感動しても、そこに感動している自分がいるのです。

仲良しだった友達と仲たがいをして、裏切られて、ひどく落ち込むことがあっても、その落ち込んでいるのは自分なのです。

大切な人の理不尽過ぎる体験を聞いて、猛烈に怒りを感じても、やっぱりそこに怒りを露わにしている自分がいるのです。

すばらしい経典や聖典などを読んで、これこそが真理なのだと理解したつもりでも、そこには真理を理解したと思っている自分がいるのです。

いついかなる時にでも、その中心に自分がいます。そして、自分には必ず何らかの物語が係わっているのです。

どんな物語とも関係のない、独立した自分というのはありえません。自分が何かを経験し続けることこそが人生なのですから。

けれども、この分かりきった決して変わることのない、物語の中心人物である「自分」がいなくなるときもあるのです。

それは、思考が停止するとき。あるいは、何かに没頭しているとき。何かのために無我夢中になっているときにも自分は消えうせます。

そのときに、愛が発動するのです。であれば、もっとも邪魔なのは自分ということになりはしませんか?それは本当に皮肉なものですね。

でもこれが本当のことなのです。個人としての「自分」は相当にしぶとい奴ですが、それでも自分が希薄になる経験をすれば、それがどれほど清々しい体験なのか理解することができます。

きっと誰もがそれを経験しているのですが、「自分」はそのことをなるべく悟られないようにして、次第にそれを忘れていくように仕向けるのです。

それを忘れないようにしておくことは可能です。自分を大切にすることは、自分がいる限りは大事なことですが、いない状態もあるのだということをいつも覚えておくことですね。