すべてを喪失する覚悟をする

自分の中には、相反する両極にあるものは等しいということを、何となく知っているという感覚があります。

それは例えば、自分自身は広大無辺の宇宙と比べれば、砂粒よりも小さい存在だと分かるのですが、でもそれが一つに繋がっていることを感じます。

つまり、極大と極小は同じものであるということです。ところが、この世界というのは、明らかにすべて中途半端な状態として存在しています。

両極こそが真実であって、その間に挟まれたこの世界は、その真実から生まれ出てきたものだと言うことができるかもしれません。

自分は、ある程度の大きさの肉体を持って、ある程度の何かしらを所有して、ある程度の時間の長さだけ生きるというわけです。

この中間的な人生の真実を知るためには、本当は両極にこそ自分の本質が隠されているのだと気づくことが必要なのだと思うのです。

つまり、中途半端に所有して、出来る限りそれを奪われないように注意し、そしてより欲するものを手に入れようとする人生を見直すのです。

もしも、すべてを手に入れようとするなら、その対極にあるものを見ることです。つまり、手に入れる代わりに、あらゆるものを失うこと。

すべてを所有することが不可能であるなら、すべてを喪失すること。これなら、可能なのです。すべてを失えば、自分こそがすべてだということになるはずだからです。

何もかも失う決意を今すぐにでもする必要がありそうです。勇気がいることではありますが、でもそれを選択することが可能なのです。

同様にして、すべてを知りたいと思うのなら、中途半端に知っているという状態をよく見つめて、本当は何も知らないということに目覚めることです。

そして、私が無であることに気づけば、自分の全体性に目覚めることになるのですね。どちらも同じことだからです。