本当は何も見てはいない

人は自分の意見を主張するときには、それが正しいと信じているはずです。そうした正しさの基準がなければ、意見など言うことはできなくなってしまいます。

けれども最近は、自分はこう思うということを相手に伝えるときに、それは本当にそう思っているからこそ、そう言うのですが、その正しさを本当には信じていないと感じます。

信じていないというよりも、それが正しいと感じているというその想いをただ観ている心の部分があるということです。

その部分とは、信じるとか信じないという範疇から離れている心の領域なのだと思います。それはただ静観しているだけなんでしょうね。

それと同じようにして、自分の感覚でさえもそのように観ていることに気づきました。例えば、自分の視覚についてです。

何かを見ているのに、何だかちゃんと見てはいない、あるいは実は何も見ていないのではないかという感覚があるということです。

それ以外の知覚である聴覚や触覚についても、同じような感じがしています。何かの音を聞いているのに、何も聞いていないような感覚。

以前は、より自分の深い部分に落ちていきたくて、そのためには知覚が邪魔になる、知覚を遮断したくてアイソレーション・タンクに浸かったこともありました。

でも今は、必要ないと思えるようになったのかもしれません。知覚を遮断する必要はなかったということです。

あまりに強烈な刺激の知覚はともかくとして、ごく普通の知覚はそれを遮らなくても、その知覚からくる感覚とは別次元の自分と繋がれている感覚というのがあるのです。

だからこそ、何かを見ていても、何も見ていないという感じがするのかもしれません。この感覚は確実に自分の中で増えてきています。

これについての努力は必要ないですが、忘れないでいる時間を増やすということと、関係があるのは間違いないですね。