真の静寂さこそが真の自己

昨日のブログでは、真の静寂について書きました。この静寂というのは、音のない静かな状態のことを言っているのではありません。

静寂さとは、思考から離れたところ、あるいは思考を超えたところのことを指しています。したがって、そこにはどんな言葉も表れることができません。

静寂さとは、何かを認識する主体がいないということでもあります。なぜなら、主体が自らを主体と認識するのは思考だからです。

思考が停止するか、あるいは思考を超越してしまえば、主体は消えてしまいます。それは、この宇宙は幻想だということとも違います。

この世界、宇宙が幻想だというのも当然のことながら思考だからです。何から何までが思考で成り立っているということです。

けれども、その「何から何まで」という思考を超えてしまえば、それを「無」と言おうが「空(くう)」と呼ぼうが、どうでもいいのです。

そのことを、真の静寂と言っていたのです。私たちは自分固有の心を持っていると信じていますし、その心の中で思考したり感情を感じたりしていると考えています。

それこそが信念体系の根っこであり、それが思考なのです。その思考群が拠り所としている場こそが「意識」なのです。

純粋な意識を説明することは不可能なことです。決して描写することのできないもの、それが本当の真の私たちの姿なのですね。

それは誰もが感じることができます。何をしているときでも、何もしていないときでも、私の表現方法では、それを真の静寂と呼びます。

知覚ではないところ、認識することのできないところ、そのくせ最も自分と近くにあるもの、それが真の静寂さです。誰でもそれを知っています。

立ち止まって、そこに意識を向けていれば、静寂さに気づくはずです。