人生のパターンを癒す

私たちは、人生において何らかのパターンを繰り返している、ということに気づくことがあります。そしてそれは大抵が気のせいなどではありません。

現実にそうしたパターンがあるということです。そのことに、明確に気づいている人もいますし、何となくそうかもしれないと感じるレベルの人もいるはずです。

そして往々にして、そうしたパターンというのはあまり当人にとっては好ましいものではないというのも事実なのです。

パターンの大元は、幼い頃に体験した惨めな想いや、恐れなどの苦しみです。そうしたことがまるでなかったかのように、本人は逃げ回って生きてきたのです。

本人は、それこそ必死に、命がけの努力をして、逃げ切ろうとするのです。確かに一時は逃げとおせたと思えたこともあったかもしれません。

けれども、事実はといえば、決して逃げとおせるものではないのです。隠したものは、本人の背後にぺったりとくっついて、いつまでも追ってくるのですから。

そうして、いずれはそれを本人に思い知らそうとして、現実の生活の中に起きてくるというわけです。それがパターンの本性です。

疑うことを知らない幼い頃に、無邪気に生きていて周りの大人たちにひどく傷つけられて、その惨めさを隠してしまうと、傷つけられるパターンが作られます。

もっと具体的にあげれば、たとえば仲良しだと思っていた人から裏切られるパターン、惨めに見捨てられるパターン、大切なものを奪われるパターン、こうしたものはいくらでもあります。

あなたの人生でのパターンはどんなものでしょうか?もしも、気になっているパターンがあるなと思い当たる場合には、それを体験するときの気持ちをよく見ることです。

もしかしたら、そのパターンの大元を見つけることができるかもしれません。いずれにしても、そのパターンが起きたときの本当の気持ちから逃げないことです。

その惨めさや自己否定感などと共にじっくりいることです。パターンを作り出している物語は出来る限り脇へ置いて、感情と一つになることです。

うまくいけば、パターンから逃れていくことができるだけでなくて、もしもまたそのパターンがやってきたとしても、そのことが問題ではなくなっていくはずです。

過去の体験をもとに未来に期待してしまう

最近、ネット上で配信される映画をたくさん観るようになりました。というのも、パソコンでは机に向かっていないといけなかったのですが、ipad を購入してから、リビングのソファに腰掛けて、リラックスしながら観れるようになったのが大きく影響しています。

画質もいいし、何よりも横になったままでも観れるというのが私好みなのです。特にジャンルを問わずに観ているのですが、気づくと洋画が多いかもしれません。

たまにとても気に入った映画に出会うことがありますが、それはそれほど多くはありません。そして、次にはもっとすばらしい映画を観たいと思うのです。

どれほど出来のいい映画を観ても、もうこれで映画は観なくてもいいや、とは決してなりません。まだまだいい映画があるはずだといつも期待してしまいます。

そして、その期待を裏切られつつも、いくつも次々と映画を観続けているというのが本当のところです。どの映画に対しても、自分なりの評価があります。

あまりに点数の低かった映画を観終わった時には、一体誰がこんな酷い映画を好んで作ったのだろうと心の中で悪態をつきます。

どんな映画だろうと、作った側にはそれなりの主張や苦労があったろうはずなのに、そういうことは大抵無視してしまうのです。

それはともかくとして、私たちは自分がいい体験をすると、それと同等かそれ以上の体験をしたいと思い続けて生きているのです。それは映画に限ったことではありません。

過去の経験を覚えておいて、未来に対してそれ以上の経験を常に期待し続けているのです。だから、その期待が裏切られると不満を感じることになります。

自分が不満を感じることがあったなら、何か過去の体験がベースになった期待を持っていたということに気づくことですね。

あくまでも過去は過去として未来に持ち越さないことができるといいですね。そうすれば、未来に対していつも素直な気持ちで迎えることができるのですから。

真理を逃避のツールとして使わない

私たちが使う言語というのは、思考とほとんど同義語と言ってもいいのですが、その言語によって真理を表現した書物は沢山あります。

有名な宗教的な経典や聖典といったものから、覚醒した人が語った言葉を書物にまとめたものなど、数え切れないほどの文献が残されています。

私たちは、そうした文章に記された言葉を理解することで、真理を理解したような感覚になって、ある種の高揚感を味わう場合さえあるものです。

あるいは、もしかしたら身近にも実際に真理を垣間見たことのある人物がいて、直接真理についての話しを聞かせてもらうことができる場合だってあるかもしれません。

言語(思考)によっては、決して真理を表わすことはできないと頭では分かっていても、都合のいいように真理を理解したような錯覚をしてしまうことが多いのです。

例えば、奇跡のコースには、この世界は幻想だと書いてあります。これは確かに真理について述べたものだということは分かります。

けれども、だからといってこの世界はどうせ幻想なのだから、どんな努力もする必要はないし、極端なことを言えば人を殺したとしても幻想なのだから問題ない、とは言わないはずです。

当然のことながら、これは真理とは程遠いものです。なぜなら、世界は幻想だということを思考によって理解してしまったからです。

そして、そういう理解の仕方というのは、自分に都合のいいように利用されてしまう可能性が非常に高いのです。それは、常に逃避のツールとして使われてしまうのです。

真理はいつも、「○○である」と表現されたとしたら、「○○ではない」とも表現されると覚えておくといいと思います。

つまり、世界は幻想である、という言葉を真理として受け止めるのなら、世界はレッキとした現実である、という表現もできるということです。

こうしたことは、理性では納得し難いことかもしれませんが、そもそも言語(思考)で真理を捉えることは不可能だという地点に戻れば、真理を納得することなどできないことを思い出せるはずです。

要するに大切なことは、自己防衛の手段として、言語によって表現された真理を利用しないということです。そのためには、自己防衛しようとしている自分を常に監視することです。

いつも自分に正直に、自分の深い部分に誠実に向き合っているなら、きっと言葉の上の真理を用いて、それを口実にして逃避しようとする瞬間を捉えることができるはずです。

そうすれば、自己防衛(見ることから逃げようとすること)をしないという選択肢があるということに気づくことができるのです。

意識と思考の違い

思考の本質とは一体何だろうと考えてみました。なぜかというと、私たちは「私」がここにいるという自覚があって、それを意識だと思い込んでいるからです。

実はそれは、意識ではなくて思考なのです。意識と思考を混同していることにはっきりと気づく必要があるのです。

そのためにも、思考の正体をできるだけ明確にしたいと思ったのです。まず初めに、純粋に単一の状態において思考することは不可能だということに着目します。

なぜなら、思考するためには必ず思考している主体と思考の対象が必要となるからです。ということは、思考とは分割、あるいは分裂を意味するとも言えます。

よく宇宙の本質はワンネスだと言われることがありますが、なにものも分割されていなければ、そこには思考の入り込む余地はありません。

したがって、よりシンプルに表現すれば、主体が対象を認識することこそが思考の始まりなのだと言ってもよさそうです。

だからこそ、思考と知覚は切っても切れない関係があるのですね。ただ、思考には論理性というものが備わっているように見えます。

それは、分割された対象を比べることによって発生するものなのだと思います。比較するということから、論理というものが生まれるのです。

そしてそこには、正しさだとか妥当性というもの、そして善悪や真偽という概念が作られるようになるわけです。

純粋な意識とは言わば何でもそのままを写す鏡のようなものです。鏡は、目の前のものを判断することなく、そのまま、あるがままを映し出します。

けれども、その鏡が粉々に割れて破片の集まりのようになってしまったとしたら、それぞれが勝手な写し方をするようになってしまうはずです。

それが思考なのです。もしも、割れた鏡を何とかして修復して一枚の美しい鏡に戻すことができるなら、もうそこには思考はなくなり、元の意識だけになるはずです。

そこには認識も思考もありません。それが、ただ在るということです。

物語は魅力的でも真理ではない

私たちは、誰もが「物語り」のことが大好きです。幼い頃のたわいもない空想や妄想の類から始まって、映画やテレビの物語にも時間を忘れてはまり込むものです。

そうした作り物の物語だけではなくて、現実の物語にもとても興味があります。実話とか伝記のような本当にあった物語、それは人や人類の歴史についてだったりします。

そして最も身近な物語として、自分自身の人生があるわけです。自分の人生については、単に興味があるというレベルでは済まされないですね。

でもそれもやはり、物語には違いありません。「物語」というのは、何かが起きること、そしてそこには原因とそれに続く結果が必ずあるのです。

原因があれば、かならず知性によって理解できる結果が待っていることを知っています。ところが、それは100%の精度があるわけではありません。

つまり、過去にある原因が充分に分かっていても、完全には未来の結果を予測することが不可能なことも知っています。

それは、原因となるもののすべての要素を知ることが不可能だからです。だからこそ、未来を予測することができても、100%の精度を達成することができないのです。

そのバランスが人生をすばらしいものにしているのですね。物語がどう進んでいくのか、自分がいつ死ぬのか、そういう未来が分からないからこそ物語に魅かれるのです。

そしてもう一つ、私たちが知っている原因と結果の因果律以外にも、ただ向こうからやってくることがあります。それはまったく予想することが不可能なことです。

それは知性では理解することのできないもの、真理という源泉からやってくるものです。この世界は、その二つの要素によって推移しているのです。

物語に興味を持つのは、思考の特徴なのだと思います。物語は理解の対象として思考にとってはとても大切なものなのでしょう。

そのことをしっかりと認めつつ、それでも物語から離れているところに意識を向けていることができることにも気づいていること、それを忘れてはいけません。そこにのみ、真理があるからです。

ただ現象が起きているだけ

この宇宙の正体とは、単に現象が起きているだけの世界であって、それ以外の何ものでもありません。

常に何かが起きている、起き続けているのが世界の実体です。「私」が居るという想いが在る、あるいは起きているとは言えますが、「私」が居るという事実はありません。

物事がただ起きているのであって、そこには誰もいないし、したがってどんな経験もないということです。

この、「ただ起きている」という事実と「誰かがいて、何かを経験している」ということとは全く異なることであって、後者は真実ではないということです。

私たちの地球には、無数の種類の生物が棲息していて、それぞれの種が生まれては死ぬということを繰り返している、確かにそう見えますね。

けれども、本当はそのように見えるということが起きているだけで、それは真実ではありません。この世界には、私やあなたを含めて、誰も居ないということです。

残念ながら、こうした真実を思考で捉えようとしても無駄なことです。なぜなら、思考はただ起きているだけだからです。

私たちは、自分の思考の中味に真実を含めることができると信じていますので、無駄だと聞いても簡単には納得したくないという想いを持っています。

思考がただ起きているということは、思考の立場を貶めることではありません。何かに価値があるとか意味があると思いたいという思考が、ただ起きているだけです。

私たちの本質とは、現象として起きているどんなものとも異なります。それは現象ではないからです。現象が起きては消えていく場のようなものです。

それだけが、ただ在るのです。

真の静寂さこそが真の自己

昨日のブログでは、真の静寂について書きました。この静寂というのは、音のない静かな状態のことを言っているのではありません。

静寂さとは、思考から離れたところ、あるいは思考を超えたところのことを指しています。したがって、そこにはどんな言葉も表れることができません。

静寂さとは、何かを認識する主体がいないということでもあります。なぜなら、主体が自らを主体と認識するのは思考だからです。

思考が停止するか、あるいは思考を超越してしまえば、主体は消えてしまいます。それは、この宇宙は幻想だということとも違います。

この世界、宇宙が幻想だというのも当然のことながら思考だからです。何から何までが思考で成り立っているということです。

けれども、その「何から何まで」という思考を超えてしまえば、それを「無」と言おうが「空(くう)」と呼ぼうが、どうでもいいのです。

そのことを、真の静寂と言っていたのです。私たちは自分固有の心を持っていると信じていますし、その心の中で思考したり感情を感じたりしていると考えています。

それこそが信念体系の根っこであり、それが思考なのです。その思考群が拠り所としている場こそが「意識」なのです。

純粋な意識を説明することは不可能なことです。決して描写することのできないもの、それが本当の真の私たちの姿なのですね。

それは誰もが感じることができます。何をしているときでも、何もしていないときでも、私の表現方法では、それを真の静寂と呼びます。

知覚ではないところ、認識することのできないところ、そのくせ最も自分と近くにあるもの、それが真の静寂さです。誰でもそれを知っています。

立ち止まって、そこに意識を向けていれば、静寂さに気づくはずです。

瞑想とは真の静寂さに気づいていること

昨日のブログで瞑想について書いたのですが、正直に言って私は瞑想の専門家(それがどういう人を指すのかは分かりませんが)から、それを習った経験がありません。

特別な教えを受けたこともないし、必要な訓練を積んだわけでもありません。したがって、瞑想の何たるかを人に伝えるような知識も経験も持っているわけではありません。

それに、特定の時間を使って瞑想に明け暮れている毎日を過ごしているわけでもないのです。なので、自分なりの解釈でしか書くことができません。

そういうことなので、もしかしたら間違った情報になってしまうかもしれませんが、でもそれを恐れずに敢えて書いてみたいと思うことがあります。

それは瞑想は誰でもできるということです。なぜなら、私たちは常に瞑想状態にいると言ってもいいからです。ただし、そのことに気づいているかどうかは別です。

私なりに思う瞑想とは、何も一人静かにして、じっとして目を閉じて無念無想を心がけるということではないと感じるからです。

そうではなくて、実はいついかなるときでも自分が瞑想状態にあるということに気づけばいいだけだということです。

それは、どんな物語の中で自分が活躍していようと、幸せをかみ締めていても、悲しみの中で涙にくれていようと、そんなことは構いません。

いかなる場合においても、静寂さがあるということに気づいていればいいのです。実はそのことこそが瞑想と言えるのだと思います。

その静寂さとは、単なる心の穏やかさではありません。だから、ただ静かにして心が波立たない状態であることでもありません。

静かな状態の心でも、ひとたび石が投げ込まれたなら、静かだった水面には波紋が広がります。ここで言っている静寂さとは、決して変化しないもの、変化を支えているものです。

朝目覚めてから、夜寝るまでの一日の生活のうちのどんなときでも、その静寂さに意識を向けることができるなら、それこそが瞑想なのだと思うのです。

すべての学校で瞑想の時間を作って欲しい

確かアメリカのどこかの小学校での話しだったと思うのですが、生徒たちに毎日瞑想をするように仕向けたところ、彼らの生活態度や学力にいい変化が見られるようになったらしいです。

瞑想と言ってもそれほど長い時間をかけるのではなくて、昼休みなどの時間を使って気軽にみんなで行うもののようでした。

それは当然、大人よりも概して落ち着きのない子供たちだからこそ、余計に効果が上がったのではないかと思うのです。

勿論、定着するまでにも、そして目に見えるような効果が出てくるまでにも、それなりの時間がかかったはずですが、いずれは確実に心に影響が現れるはずです。

けれども、みんなで瞑想をしようと初めに提案した教師によると、父兄の多くの人たちから猛烈に反発されたのだと言っていました。

それは、ただ「瞑想」というだけで、もう何か怪しい宗教でも始めるのではないか、子供たちが危険な洗脳をされてしまうのではないかといった、歪んだ誤解をされたのです。

それくらい、精神的なことというのは微妙な要素を含んでいるのですね。そうした父兄の反対を押し切っても、実現してしまえば結果がすべてを物語っています。

勿論、もう誰も反対などを唱える人はいなくなったのでしょう。私は大人でも瞑想が苦手という人を沢山知っています。

そういう人でも、子供のころから瞑想に慣れ親しむような生活習慣があったとしたら、きっと違っていたのではないかと思うのです。

日本は勿論のこと、世界中のすべての小中高の学校で数学や国語を勉強するのと同じように、あるいは体育の授業があるのと同様に「瞑想」を義務付けて欲しいと願います。

何もお坊さんや修行僧のように長い時間をかける必要などないのですから。瞑想をして毎日の物語から少しの時間でも離れていることができたら、国家レベルで何かが変わっていくのではないかと思っています。

それは勿論国民が国を作るからですね。国が繁栄して経済大国になるということに直接繋がることはないかもしれませんが、他の国が手本にしたいと思うような国になるのではないかと思います。

物語から離れる時間を作ることが大切

毎晩、日付が変わる時刻の少し前になると、今日もブログを書かないとなあと思って、今やっているようにパソコンに向き合うことになります。

少々面倒な気もしますが、その反面何かを書くことが好きなんだろうということも、気づいているので、まだまだ続いていくんだろうなと。

このブログを書く直前だったり、あるいは書いている最中というのは、ある種瞑想しているような気分に近いものがあって、それがとても心地いいのです。

一日を過ごして、自分の人生には大きな変化など何もないのですが、それでも仕事を立て続けにやった日があれば、まったくボーっとしていたような日もあります。

どんな一日を過ごしたとしても、こうしてブログに意識を向けていると、何となくとても気持ちがスーッとして清々しい気持ちになれるのです。

人は物語が大好きなのですね。だから、テレビドラマや映画などを観ることがこの世界から廃(すた)れることはないのでしょう。

夢中になって、その物語に入り込んでしまうことができます。自分の人生にそれほどのドラマ性を求めないにしても、やはり退屈しない物語を好むのです。

そして、その物語が作り物であろうと現実のものであろうと、人はいつだってそこから離れようとはしません。

けれども、ブログを書いているときには、あらゆる物語から離れている感覚が常にあるのです。私にはその感覚がとても大切なのだと思うのです。

物語から離れていると、思考が停止しないまでも、自分が思考よりも意識だという感覚を取り戻すことができるからなのでしょう。

ということで、もうしばらくはこうしていつも通りに意味のないブログを書き続けることになるんだろうなと思っています。

物語から離れていると、時間と空間の感覚からも離れてしまうような気がします。そこには、何とも言えない平和があると分かります。