幸せは手に入れられない

一般的に言えば、誰もがより多くの幸せを手に入れたいと願っているはずです。よほどのひねくれ者でもない限りは、自分の人生を満ち足りたものにしたいと望んでいます。

そのためには、欲しいと思っているものを着実に手に入れて、少しずつ不満を解消していけばいいのだと信じているのです。物質的な豊かさだけではなくて、精神的にも安定したいのです。

最愛の人に愛されて、快適な暮らしを手に入れて、穏やかな心で日々を満喫できたらいいなと思うのです。私たちの幸福感というものは、人によって違いはあるものの、大抵は○○だから幸せなのだと説明できるものです。

けれども、そうした幸せは長続きしないものです。なぜなら、この世界で起きていることはすべてが一過性のものだからです。幸福であるために、何かを必要とするなら、その幸せには永続性がないと言わざるを得ません。

これは、いい悪いの問題ではなくて、事実です。こうしたことは、人に言われるまでもなく、どこかではっきり気づいているはずなのですが、そこを直視するのが怖くて目を背けているのです。

直視してしまったら、一体どうすればいいのだろうと、途方に暮れてしまうことになるかもしれないからです。それまでの生き方に期待できなくなってしまうのですから。

こうなったら安心できる、これが手に入ったら幸せ、そうやって今足りないと感じているものを補充することで幸せを掴もうとしてきたことを否定することになるからです。

けれども、方法はあります。幸せは探すことができるという思い込みを放棄するのです。なぜなら、完全に満ち足りた状態にあるものが、それを探すなどということは不可能なことだからです。

この世界の背後に隠されている真実に目を向けること、空間や時間も含めてすべての現象が起きている土台に意識を向け続けるのです。

そうすると、何かを探すとか、手に入れるということが不可能だということに気づくはずです。自己の本質としての不可能性に気づくとき、ただ在るという静かな恍惚が顕われてくるのです。