本質への気づきは体験ではない

人生は一度しかないのだとしたら、すばらしい体験をたくさんしたいものですね。感動することや、悦びで胸が張り裂けそうになる体験とか。

場合によっては、奇跡的な体験や精神的な超越体験などといったことも含まれるかもしれませんが、私の場合には残念ながら人が羨むようなすごい体験をしたことがありません。

生来の物ぐさのせいで、体験そのものが少ないということもあるかもしれません。どこにも行きたくないし、わざわざ危険を冒して山に登ったり、スリルを味わうためにバンジージャンプをしようという気もありません。

急に○○のラーメンが食べたくなって、飛行機で北海道まで行ったことがあるという話しを聞くと、自分には到底できないことだと思うのです。

そういう意味からすれば、刺激の少ないかなり平坦な人生だという自覚があります。特に、年齢を重ねるごとにその傾向は強くなってきた感じがしています。

そんな私ですから、自分の本質に気づいたなどと言っても、本当は別にどうということではないのです。それは、当然のことながら、私の個人的な努力の結果でもないし、自分の手柄は皆無です。

もっと言えば、本質への気づきとは実は上で述べたようなどのような体験とも異なるもので、それ自体を体験というのは間違っているという感覚もあります。

私という自我が、覚醒体験をすることはできません。自我ができるのは、あくまでも興奮するような体験なのです。それは、強烈であるがゆえに、一過性のものなのです。

本質への気づきは、本質そのものがそれ自体に気づくことであるので、私の自我が入り込む余地などないのですが、自我は巧みにそれを自分の体験と判断し、何とか自分の手柄のように考えようとするのです。

本質への気づきは、体験ではないので永続性があり、常に冷静なものです。一瞬感動したりするのは、自我が勝手にそれを体験として横取りするからです。

気づきが他のどんな体験とも異なるのは、そうしたことが原因なのですね。真実には、どんな手柄もそれを喜ぶ誰もいるわけではないのです。