退屈という飛び道具

何か辛いことがあったり、苦境に立たされていたり、苦悩しているときには、必ず自我が活性化しているのです。

そこから逃れようとして、それと戦って、それを回避しようとすることで、それを我慢することで自分の存在が明確になるのです。

けれども、そのような状態から解放されてくつろぐ時、自我は静かになって自分が誰だか分からなくなってしまいます。

自分の年齢を思い出しても、誰か他の人の年齢のようにも感じるし、自分の生い立ちを思い出してみても、すごく遠いことのように思うのです。

◯◯歳という数字が自分に似つかわしくなく感じるのです。もうここにはどんな物語も残されていないような。

俳優さんや役者さんが、役柄を演じた後に自分自身に戻る時、そこには明確な個人がいるのですが、それに似ています。

ただし、自我が演じていた誰かから戻ってくる時には、そこには誰でもない自分だけが残されているのです。

この状態が続くと、自我は巻き返しを計って「退屈」という飛び道具で誘ってくるのです。

退屈から抜け出そうとすれば、また自我という俳優さんのお出ましとなるわけですね。今日はそれをただ見ていられる感じがします。