個人もマインドもそんな実体はない

私たちのマインドとは、個人という塊として存在しているという思考をベースにした、単なる思考群に過ぎません。

個人という実体があるかのように思い込んでいるために、それが原因となって様々な結果がやってくるのです。

それは不安だったり、孤独感だったり、あるいは惨めさだったりするのですが、それはとても都合が悪いものなので、できる限り感じないように工夫するようになるのです。

不安をできるだけ安心に変えようとして、自分と誰かを比較しようとしてみたり、欲しいものを手に入れようと努力するのです。

あるいは、孤独を紛らすために誰かと一緒にいようとするのです。社会で活躍して自分の価値を見出そうとすることで、なんとか惨めではない自分になろうとするのです。

こうした生き方すべての根底にあるのが、個人としての自分があるという間違った思い込みなのです。

その努力は果てしなく、生きている限り続くものです。ここではっきりさせておきましょう。個人は決して本当には満たされることがないということ。

死ぬ前に、私は自分の人生に満足していると言う人もいるでしょうけれど、その裏にはマインドの不満が隠されていて、その思考エネルギーが転生するのです。

個人、あるいはマインドという実体などないと見抜くこと以外に、真に満たされることはないのです。

マインドをよ〜く日々見守ることができるなら、そんなものはそもそもないということに気づくことになるのでしょうね。

マインドは分離によって支えられている

これはマインドの基本中の基本なのですが、あなたがこれが自分だと認識しているマインドの部分というのは、ほんの一部に過ぎないということ。

気づいていないマインドの部分の方が本当は多いのです。自覚しているマインドの部分からすると、都合の悪い部分は見えないようになっているということです。

先日ちょこっと瞑想しようと思って目をつぶった瞬間に、どこからか「ああうっとうしい〜」という声が聞こえました。

普段は自覚していないのですが、瞑想をとても嫌がっているマインドの部分があるということですね。

分かってはいたのですが、日頃そこに目を向けていなかったということです。理想を言えば、マインドのどの部分にでも目を向けてあげられればいいのです。

私は◯◯なんです!というのは簡単ですが、そのときには必ずそうではないマインドの部分があるということを意識してあげることです。

いつでもマインドのあらゆる部分に光を当ててあげられるようになれば、いずれマインドは消滅してしまうでしょう。

なぜならマインドは分離によって支えられているからです。

思考がある時、物事は不明瞭

私たちの生活は、気づいているかいないかは別として、とにかく思考まみれです。思考が止まることはまずありません。

この思考の正体そのものを説明することは難しいのですが、どのような状態になると思考が活動するのかは分かります。

それは、物事が不明確なとき、不明瞭で本当は分からないときに、思考がそれをああでもないこうでもないと考える余地があるということ。

ということは、私たちが明確に分かっているという場合でも、明確に分かっていると思考で理解しているに過ぎないということです。

たとえば、丸いものを見て、これは丸いものだというのは明らかだと「思う」のです。丸いものだと判断を下すのですが、その判断自体が思考からくるのです。

以前自分がいなくなる体験をしたとき、時間はないということが明らかだったのですが、あれは「時間がない」という言葉とは違うものでした。

明らか過ぎて思考は活動できないのです。というよりも、思考が落ちてしまっていたために、真実の中に入ってしまったということかもしれません。

真実の体験は、思考による言葉では決して表現することができないので、残念ながら実際に体験するしかありません。

この世界を思考によって生きている時、何もかもが不明瞭だということを忘れないようにしたいものですね。

身体と離れた存在の質に気づく

身体には健康なときもあれば、病気のときもある。見守ってごらん。ただ見守っていれば、突如として、あなたはまったく違った存在の質を感じ取るだろう。あなたは身体ではない。身体はもちろん病むが、あなたは病んではいない。

by osho

身体が充分に健康なときには、まるで身体がないかのように感じるものですね。身体に意識が向かなくなるからかもしれません。

一方で、身体が不調だったり、痛みや不快感があるときには、そこに注意が向いてしまうのは当然のことです。

そして身体の存在が自分にとって大きなものと感じるようになるのです。けれども、そのときには大きな気づきのチャンスもあると↑上で言っているのです。

つまり具合の悪さと戦うのをやめられたとき、身体の不調をただ見守ることができたとき、全く違った存在の質を感じられるかもしれないということ。

身体からやってくる様々な信号とは離れている存在の質、それこそが本来の自分だという感覚。

自我というのはいつも身体とぺったりくっついて、身体を含めたトータルな自分というものを感じているのです。

けれども、身体との間に距離を感じることができるなら、身体との一体感は薄れていき、決して病むことのない、苦しむことのない存在の質に気づくのです。

身体の不調は本当に嫌なものですが、そんなところにも大切な気づきのチャンスは転がっているということですね。

退屈という飛び道具

何か辛いことがあったり、苦境に立たされていたり、苦悩しているときには、必ず自我が活性化しているのです。

そこから逃れようとして、それと戦って、それを回避しようとすることで、それを我慢することで自分の存在が明確になるのです。

けれども、そのような状態から解放されてくつろぐ時、自我は静かになって自分が誰だか分からなくなってしまいます。

自分の年齢を思い出しても、誰か他の人の年齢のようにも感じるし、自分の生い立ちを思い出してみても、すごく遠いことのように思うのです。

◯◯歳という数字が自分に似つかわしくなく感じるのです。もうここにはどんな物語も残されていないような。

俳優さんや役者さんが、役柄を演じた後に自分自身に戻る時、そこには明確な個人がいるのですが、それに似ています。

ただし、自我が演じていた誰かから戻ってくる時には、そこには誰でもない自分だけが残されているのです。

この状態が続くと、自我は巻き返しを計って「退屈」という飛び道具で誘ってくるのです。

退屈から抜け出そうとすれば、また自我という俳優さんのお出ましとなるわけですね。今日はそれをただ見ていられる感じがします。

無邪気さを捜す必要はない

あなたは自分の中にある無邪気さに気づいていますか?あるいは、その無邪気さをどのくらい日常使って生活しているでしょうか?

無邪気さなんて、もうすっかり遥か昔に忘れてきてしまったと感じている人もいるかもしれませんね。

幼い頃というのは、まだ社会的な存在ではないので生まれたままの無邪気さがそのまま残っているのですが、成長するにつれて少しずつ影をひそめるようになるのです。

特に幼い頃から不安な家庭環境で育ってしまうと、早いうちから無邪気さが隠れてしまい、子供なのにどこか大人びた感じになったりするのです。

そうなると、大人になるにつれて更にその無邪気さは厳重に心の地下室へと閉じ込められて、息苦しい不自由な生き方しかできなくなってしまうのです。

無邪気なままの非社会的な部分をどうやって思い出せばいいのか?どうやってそれを捜せばいいのだろうかと考えることがあるかもしれません。

けれども、無邪気さを捜す必要などないのです。なぜなら、隠しているのは自分自身であるからです。

捜すのではなく、隠すことになった切実な理由を見てあげることですね。そこには、無邪気なままでは生きていけないという子供の頃の激しい恐怖があったのです。

その恐怖と共にいつもいられるようになったなら、無邪気さは自然と戻ってきてくれるはずなのです。

思考の雲による smoke and mirrors

あなたが内側に入ってゆくと、ただちに頭が無数の思考を分泌する。とたんに膨大なエネルギーがどっと思考に流れこむ。あなたが内奥の<無>を見ることができないように雲を創りだす。あなたは見たくない。見入ることは自殺することだ–エゴとして、自己として自殺することだ。

by osho

英語で 「smoke and mirrors」という表現があるのを知っていますか?ネットの情報によると、ざっと以下のようなものだそうです。

「マジシャンがマジックを披露する時に「Smoke(煙)」と「Mirror(鏡)」を使っていたことが語源です。

そこから意味が転じて「人を欺く」という意味のフレーズとして使われるようになったのだそうです。

明らかに問題のある物を嘘をついて売りつけたりする人など、まるでマジシャンのトリックのように巧妙な嘘をつく人に対して使われたりするため、あまりいい意味で使われることはありません。」

日本語でも「煙に巻く」という表現がありますが、似たようなものかもしれないですね。

もしもあなたが存在の核心に触れるくらいの内奥を見ようとしたら、自我は smoke and mirrors 戦法によって、あなたをだまくらかそうとするのです。

それが思考の雲というわけです。もしもその煙幕を取り払い、真正面から覗き込んでしまったなら、個人としての自分がいるという思い込みがあっという間に吹き飛んでしまうのです。

それは確かに自我の自殺と言えます。セッションでも少し核心に触れるようなことを言うと、全身全霊で自分を騙そうとする反応がクライアントさんから出てくることがあります。

恐怖に負けてそこを見ない限り、その恐怖は本物に思えるのです。その堂々巡りでいつまでたっても、核心は隠されたままで人生が終わるのです。

私のように、何かの拍子に垣間見ることがあったとしても、結局はその恐怖はまたゾロ復活して、元の安定した自我の状態に戻るのです。

ただし、個人の存在は思考の中でのみ通用するのだということは、分かりきったことなんですけどね。

ノーマインドこそ自然

真の覚者とは誰なのか?もし、鬼が心の産物であり、仏が心の産物であるとしたら、では真の覚者とは誰なのか?真の覚者とは、もう心ではない人だ。心のあらゆるゲームを見抜くに至り、心のあらゆるゲームから身を引いた人だ。

by osho

↑上で「心」を全部「マインド」に置き換えて読み直して下さい。真の覚者とは、もうマインドではない人。つまりマインドが落ちてしまった人。

マインドのあらゆるゲームから身を引いたら、一体全体何が残るのでしょうか?残念ながら、それをマインドが知ることはできません。

マインドが落ちたときにのみ知ることができるからです。日頃私たちが感じていることの99%以上はマインドの世界なのです。

私の拙い経験から言えることは、マインドが落ちてもこれといって目立った変化がやってくるわけではないということです。

単にこの私という個人が初めからいなかったと気づいている状態になるだけだからです。嬉しいでも悲しいでもなく、ただそのままに在るだけ。

時間と苦しみは有り得ないということも分かりますが、幸福感がやってくるわけでもありません。

結局言葉ではどうやっても表現することができないのですね。言葉はマインドの世界のものだからです。

マインドのあらゆるゲームの中には、人生も入っています。だから人生そのものがすっぽりと消えてしまうということでもあります。

マインドが狂人を作り、ノーマインドが自然に戻るということですね。

真理は信じるターゲットになり得ない

偽りの探求者とは、まさに初めから何かを証明しようと懸命になる者のことだ。「私は神を探し求めている」と言う者は、偽りの探求者だ。「神は存在する」というひとつのことを、彼は受け容れた。知りもしないのに?知っているなら、なぜ探すのか?知らないなら、どうやって神を探すことができよう?

by osho

↑このことは何度も繰り返して、自分の胸に問いただす必要があると感じますね。「彼は受け容れた」という表現は、「彼は信じた」と言い直すべきです。

信じるというのは、知らないからこそできることだと見抜くことです。知っていることを信じることはできないのですから。

そして一旦信じてしまうと、それが硬くなっていって信念へと変化していくのです。そうなると、真理からかけ離れて行ってしまうのです。

これはもう自我の罠だと言ってもいいのです。これは信じた内容の如何にかかわらず言えることなのです。

1番注意しなければならないのは、真理に対する概念を生み出してしまうこと。概念は思考なので、信じるターゲットとなるのです。

けれども真理というのは、思考ごときで信じることはできないものです。探求者は、いつかはその探求者が消えていく憂き目に遭うことになるのでしょうね。

無条件あるいは無限というフレーバー

自我にとって苦手なことはいろいろありますが、その中でも「無条件」というのはほとんど受け入れ難いのだと思いますね。

必ず何かしらの条件をつけてしまうのです。この条件であればOKだけど、そうじゃなければNGという具合に。

この条件付けこそが、実は私たちの苦しみの原因なのです。なぜなら、無条件であれば、何であれ受け入れることができるからです。

受け入れられない状態こそが、困った状態、苦悩の状態なのです。こんなことは分かりきっているはずなのに、やはり無条件というのは難しい。

おじいちゃん、おばあちゃんが孫を無条件に愛しいと感じる、というのはありますが、これもいつまでも続くという保証はありません。

自我は無限というのも苦手なのです。自我にとっては、有限だけをイメージできるからですね。だから何にでも始まりと終わりがあると思っているのです。

けれども真実の世界には、そんなものはありません。大きさや広さが有限のものであればその向こうが必要になって、結局無限にそれは続くのです。

思考が条件を作り出し、思考が限界を生み出すのです。だから自我はそれしか理解できないということです。

もしも自我と距離を取りたいなら、無条件、無限といったフレーバーを感じる練習をするのがいいと思います。

それは敢えて時間を取って瞑想しなくても、常日頃からそういった感覚を探す訓練をすればいいのです。是非試してみて下さい。