愛と欠乏感は真逆

純粋な愛というのは、後から後から無尽蔵に溢れ出てくる枯れることのない泉のようなもので、それは常に外側へと広がっていくイメージがあります。

一方の私たち自我というのは、その真逆。自我の根っこにあるものは、欠乏感なのです。愛とは逆に周囲から吸収しようとするものです。

つまりは、ギバーの反対にテイカーであるということです。それの是非はさておき、自我は欠乏感があって初めて成立するのです。

もしも、完全に満足しきってしまい、もう欲しいものは何もないという状態になったとしたら、自我は存続することが難しくなってしまうでしょう。

ですから、自我として生きていくためには欠乏感は必須のアイテムなのです。それが純粋な愛と正反対であるということを認められるかどうか。

自我には純粋な愛がないことを原理的に認めてしまうと楽になります。もちろん、私たちには愛しいと感じる他者がいるのも事実です。

それが、純粋な愛へと変化することもあるかもしれませんので、自我の愛を否定する必要もないのですが、純粋な愛は自我のものではないということは理解すべきことです。

ただし、私たちは場合によっては純粋な愛を感じることができるのです。なぜなら、あなたが常に自我に乗っ取られているわけではないからです。

ある時突然、自我が静かになって、つまりは吸引力が収まり、その代わりに純粋な愛が表面化することもあるからです。それこそが、私たちの本来の姿なのですね。