責任逃れ

ある人にこういう質問をしたことがありました。「想像の中で、自分の言動として一番浅ましい、最も嫌悪することといったら何ですか?できるだけリアリティのあることでイメージしてみて下さい。」

その人はいろいろ考えた末に、ひき逃げの犯人になることかもしれないと言ってくれました。それを聞いたときに、最初はもっと極悪非道なことは沢山あるのにと意外な感じがしました。

その人の解釈では、爆弾テロのような殺人とか、強盗などはリアリティがないし、やっていることに向き合っているので、ある種の覚悟をしている行為という感じがするということでした。

それに比べて、ひき逃げというのは卑怯な感じがする、つまり責任逃れという意味あいが含まれており、それが一番ダメ出しの対象になるということでした。

それを聞いて一つ思い出したことがありました。学生のころに、友達と話しをしているときに、自分は殺人よりも脱税の方を忌み嫌うというようなことを言っていたのです。

殺人を擁護するような気持ちは勿論まったくありませんが、脱税の方が何かこう「せこさ」みたいなものを感じて、とても醜悪な気がするということかもしれません。

しかし、最近では人間のどんな卑劣な言動であろうと、それに対してあまり反応するということがなくなってきてしまいました。

その理由は、そうした浅ましい言動をしてしまう心の大元には分離しながら生きることの苦悩があるということが分かってしまったからです。

責任逃れというと、卑怯な感じがしますが、単に苦悩から逃れたいということだというように変換すれば、卑怯だという感覚はなくなってしまいますね。

人の悪い言動、ダメ出ししたくなるような自分の思いや感情、そうしたものは例外なく根本的な分離の苦悩から逃れたいというたった一つの原因からくるものなのです。

それを責めて、そこに罪を見出す必要があるでしょうか?