理性的な意識

私達は、時として激しい感情が沸き起こってきたり、追い詰められてパニックになったりすると、理性的なコントロールが効かなくなってしまって大声を出してしまったり、とんでもない行動をしてしまうことがあります。

それでも、後で気持ちが落ち着いたときに自分の言動を思い返してみたときに、あれは理性的ではなかったなと理解して、それを認めることができますね。

そうした理性を欠く言動というのは、感情やその他の情動によって理性を使うことができなくなってしまっている状態なのだということが分かっています。

裏をかえせば、理性さえしっかりしていれば、つまり自分の自覚として理性的でいられる限りはそういった事にはならないという自信があります。

しかし、もしもその頼りにしている自分の理性そのものが歪められてしまったとしたらどうでしょうか?物事の理屈や歪みを認識できるのは、その理性がまともに働いているからこそなのです。

つまり、私達は理性そのものを歪められてしまうと、その理性によって物事を解釈し判断することになるため、その結果は理性的な判断や言動をとることができなくなってしまうのです。

しかし、その場合には自分の言動が理性的ではなくなっているという認識をすることができません。それを認識するための理性そのものが歪められているからです。

ですからこのような状態において、自分で自分の言動を正しく評価することは不可能なのです。でもそんなことはまずないだろうと思われるかもしれません。

これは以前コラムでも書きましたが、実は合理化と言われている人の心の防衛のメカニズムの一つとして実際にあるのです。

日常的にそうしたことがどのくらいあるのかというのは、各人の心の状態や防衛のパターンによっても違ってきますが、セラピーのセッションの場では事の他よく起きます。

それは、セッションでは本人が無自覚に抑圧してきたものに直面して何らかの気づきを得ていただくための支援をするため、ご本人の防衛機制が働き出すということが原因です。

本当に人の心とは不思議なものですね。とても興味深いですし、最近では自分の防衛するパターンを見つけて苦笑いすることも多いです。