成人の日

今日は成人の日らしいですね。我が家では、もうすでに二人の子供はとっくに20歳を過ぎてしまっているので、特別関係がなくなりました。

自分が20歳の時はというと、大学の後期試験の直前だったこともあって、成人式には出ることもなく焦ってやっつけ的に勉強していた記憶があります。

20歳になると成人したと認められるのはなぜなのかといつも思います。私は自分で言うのも何ですが、内面的には18歳くらいのような気がしています。

学生のころから精神的な成長をしていないということかもしれませんね。だから社会人として世の中に出て、仕事をして人並みに生きていくことが結構困難に感じていました。

それは心のどこかで大人になることへの恐怖、あるいは拒絶があったのかもしれないと思っています。表面的には何も問題なく毎日を過ごしているように見えても、心の中では葛藤があったということですね。

そういったことは本人が自覚しているかどうかは別として、それほど珍しいことではないかもしれません。昨日もブログで書きましたが、分離不安を乗り越えていない幼い心は、そのまま大人になっていくことに待ったをかけるのです。

成人して立派な大人になることは、自立して親から分離することを意味するからです。いつまでも子供として親との一体感を持ち続けたいという隠れた願望があるのです。

立派な大人になることを拒否する理由は、そのほかにも沢山考えられます。例えば、抑圧された親への怒りなどから、自分の人生を失敗させることで復讐を図ろうとするという場合があります。

また、子離れできない親に育てられたようなときにも、そういう親の気持ちに応えるために自分を子供のままでいさせようとしてしまうといったケースもあるのです。

いずれにしても、人から見て立派な人物になる必要はありません。大切なのは、真の幸せにできるだけ近づくことです。

そのためには、分離不安を心の奥にわだかまったまま残してしまったということも、自分のエゴの作戦でしかなかったということに気づくことです。

つまり、親の育て方のせいにして被害者の立場でい続けることをやめると決意することです。それと同時に、分離不安を作り出してしまった過去を見直して、少しずつ抑圧されたままになっている感情を開放することです。

分離不安 その2

昨日は精神的な苦悩の根本には分離不安が潜んでいるというお話しをしました。そして誰でもが分離不安を持っており、単に人によってそれぞれ自覚する大きさの違いがあるだけだとも書きました。

幼子が親との精神的な分離をし出すときには、相当な心の痛手を負うことになるのですが、日常生活がその子にとって親から安心をもらえているような環境であると、うまくその痛手をすり抜けられるのです。

しかし、親との関係に問題があるとそれだけでも不安を強いられる毎日を送ることになってしまうため、精神的な分離は計り知れないほどの恐怖となってしまいます。

そうなると、自立を期待されているこの世界においては、依存に執着することになりますので適応障害というレッテルを貼られてしまうことになるのです。

だからといって、分離不安を強く持っているとしても、そのことを否定的に考える必要はありません。それは単に自立して立派な自分を目指すエゴの成長が充分になされないということだからです。

私たちの真の幸せは自立することではありません。自立してこの世界で認められて成功したとしても、そこで得られるのは一過性の安心でしかありません。

分離不安とは当たり前すぎるほど当たり前の恐怖なのです。なぜなら、愛はすべては一つという想念であり、分離はそれと真反対の状態を意味するからです。

分離するということは、愛のない状態であり、それは恐怖を意味します。したがって、分離したことを何の不安もなく受け入れられるということの方が間違っているとも言えるのです。

強烈な分離不安から孤独感が強く、依存し続けてしまっているとしても、それはある意味当然のことなのです。ですからそのことを嫌悪する必要はないのです。

それよりも、分離からすべては一つという状態に戻すためにどうしたらいいかを考えるべきですね。自立したとしてもそれはより深く分離することになるだけです。

依存の問題点は自立できないことではなく、愛を与える側に立っていないということです。自分の心に愛を感じることができれば、自動的に分離感から開放されていくはずなのです。

分離不安

世の中には様々な病気がありますが、その中でも特に精神的に病んでいるという状態にある人は概ね分離不安を強く持っていることに起因すると思われます。

我々は本来自分と周りの区別がない状態のまま生まれ落とされます。しばらくすると、肉体的には自分と親とは違うものだという区別ができてきますが、それでも精神的には漠然とした一体感の中にいるのです。

それがエゴの発達に伴って、自分と自分以外の人とは明らかに違う心を持っているのだという認識をしていくことになります。

この心理的な分離をしていく大切な時期に、何らかの失敗をしてしまうといつまでもその時の分離にまつわる強烈な不安を持ち続けることになってしまいます。

それは不安と言うよりは正確には死と隣り合わせなくらいの大きな恐怖感と繋がっています。それが大人になって様々な神経症などの精神疾患を発症したりすることになるのです。

そうした要素を心の中に全く持っていないという人はいません。そうした不安を抑圧して感じないようにしているか、常に心のどこかで自覚してしまっているかの違いがあるだけです。

分離不安を強く持っていると、無意識のうちに分離しないでいられる方法はないものかと探し続けることになってしまいます。

そうすると、自立することから逃避しようとすることになり、それは大人になることへの拒絶感を生み出します。いつまでも子供のままで親の世話になって一体でいたいと思い続けるのです。

それは結果として強い依存症状を引き起こす事になるでしょうし、発達不全、あるいは発達障害というものまで起こしかねないのです。

とても一人では生きていくことなどできないとして、親にまとわりつこうとします。親がダメなら親の代わりになってくれる人に激しく依存しようとするはずです。

分離不安をなくしてしまうことはできませんが、受身の生活から与える側に意識を変えることができたら、少しずつでもそうした不安感を小さくしていくことができるはずです。

密接に係わる

マザーテレサは次のような言葉を残しています。

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誰かに愛をもたらしたいと思うなら、
その人に密接に係わらなければなりません。
もし、数を求めるなら、
ただひとりの人に愛と尊敬をもって接する代わりに、
数の中に自らを失ってしまうでしょう。
私は、人と人との間に起こることの存在を信じます。
一人ひとりの人は私にとってキリストです。
そして、その人のうちには、
ただ一人のイエス様がおられるのですから、
今まさに出会っているその人が、
そのとき、私にとって、この世界におけるたったひとりの人なのです。
+——————————————————–+

まさに奇跡のコースの教えと全く同じことを言っているのでびっくりさせられてしまいます。一人ひとりの心が癒されていくということは、人と人との係わり合いの中にこそその過程があるのです。

心と心の係わり合いには相手の人数は関係ありません。どれだけ深く、心の中を分かち合うことができるかということにかかっているからです。

相手と密接に係わることで、自分の中にある隠された部分が相手に投影されていることに気づくことができ、そこに許しの入る隙間ができてくるのです。

相手と深く係わることは、自分の内奥を見つめることでもあるからです。そして、相手の心の奥に真実の愛の部分を見出すことで、自分の心にも同じものがあると気づくことができるのです。

自分の周りにいるどんな人との間の関係性においても、愛に気づくチャンスが静かに手を広げて待っていてくれるのです。

帰省

この年末年始のお休みを利用して、実家に帰省された方も多かったのではないでしょうか。日本では、夏休みよりもお正月を実家で過ごすという人の方が多いのかもしれませんね。

しかし、今まで沢山のクライアントさんと接してきた経験では、長い間実家に帰ってないという人や、帰るとしても決まりだから仕方なくという人が意外にも多いのです。

つまり、帰省したくないと思っている人が沢山いるということですね。帰省したとしても、何となく居心地が悪くて早々に引き揚げてきたという話は今までに何度も聞いてきました。

一般的には自分が生まれ育った親の元に帰るわけですから、一番自由で居心地のいい時間を過ごせるのだろうと思いがちですが、現実はそうでもないということです。

それは親に育てられていた時期が、その人にとってどのようなものであったかということに深く関係しているのです。

親との関係に問題があったり、何らかの犠牲を強いられてきたという場合には、実家に帰るということは本人にとって苦痛以外の何物でもないのかもしれませんね。

癒しを進めていくと、まず最初に幼い頃の親との係わりを見直すことになります。そこで、過去溜め込んできたさまざまな感情を開放したり、自分の本心に気づくことなどでわだかまりを手放していくことになります。

ある程度それが進むと、もう帰省しても穏やかな心で過ごせるのではないかという自信がついてきます。そうして実際に帰省してみると、概ね次の二つのパターンが待っています。

一つ目は、久しぶりに会った親兄弟などの家族の自分に対する態度が以前と変わっているということに気づいて、自分の癒しが進んだことを自覚できるのです。

この場合には、それまで心の中で敬遠していた実家が思いがけず居心地のいい場所に感じることができるようになったなと嬉しくなるはずです。

二つ目は、やっぱり家族は変わってなかったと失望して戻ってくるというケースです。自分は癒しを進めてきたはずなのに、実家に戻ると従来の自分に戻ってしまうという経験をするのです。

この場合は、まだまだ心の奥に隠しているものが残っているということですから、あきらめずに癒しを続けていくことですね。

いずれにしても、ときどき生まれ育った環境に自分を戻してみるというのは、自分の癒しのバロメーターになりますし、これから先の癒しのヒントを与えてもらえる大切な経験になるということを覚えておいて損はないと思います。

所有すること

初めて音楽の媒体を買ったのが小学5年生の時だったと思うのですが、その時はドーナツ版と呼ばれるレコードで今のシングルCDに相当するものでした。

中学生の時もレコードを買った記憶はあるのですが、明確に自分自身の趣味でミュージシャンを選ぶようになったのは高校に入ってからでした。

昔はレンタルショップというものがなかったので、親からもらったこずかいから購入するしかないので、厳選に厳選した末に月に一枚か二枚アルバムを買うという習慣になってました。

少しずつですが、気に入ったアルバムのコレクションが増えていくのが嬉しくて、今思うとあれがいわゆる収集家たちの楽しみにも似たものだったのかなと感じています。

しかし、元々何かを集めて喜ぶタイプではなかったので、レンタルショップが増えてくると、借りてきたアルバムをカセットテープにダビングして楽しむようになりました。

今ではそれが若者の文化みたいになっていますが、購入するのに比べて格段に安価に楽しむことができるのですから、利用しない手はありません。

自分には所有欲みたいなものがあまりなかったのかもしれません。勿論子供の頃から欲しいと思うものはおもちゃにしても何にしても沢山ありました。

しかし、それは所有していたいという欲求ではなく、それで楽しみたいだけなのです。ですから、遊び飽きてしまうと次のものへと興味が移ってしまい、物を大事に持っているということがありませんでした。

大人になってもその傾向は変わらず、何かを自分の物にしたいと思うことはほとんどありません。使えればいいし、楽しめればいいという具合です。

世の中のすべてとは行かないまでも、できる限りレンタルできるシステムが普及してくれたら高額を払って手に入れる必要がなくなります。

世の中全体で、特に高額なもの、土地や建物、クルマ、そういったものをみんなでシェアするような文化や仕組みができたらいいなと思っています。

所有するということに特別な価値を見出すのは、我々の心に巣食う不安感や欠乏感が原因なのではないかと思います。

自分の所有物にしないと気がすまないという気持ちが人々の心から少なくなることで、さまざまなものを共有するしくみをもった社会になっていくのではないかと期待しています。

感謝は幸せのバロメーター

なにげない毎日の生活の中で、感謝を感じることがどれだけあるかということが、その人の幸福度を表す一つのバロメーターになると思います。

それは何か特別なことがあって、そのことに格別の感謝を感じるというものとは違いがあります。例えば、旅先などでトラブルに出会ってとても困っている時などに、見ず知らずの人に親切にされるという経験は、感謝の念を引き起こすはずですね。

こうした経験も確かに幸運ではあるし、とてもすばらしい体験をしたということには違いないのですが、しかし一番贅沢な感謝には、特別なことは何も必要としないのです。

私にとって毎日感謝をし続けられるのは、セッションに来てくださるクライアントさんや講座に来てくださる受講生のみなさんに対してです。

自分の癒しをこの先も進めていくために必要となるお金を与えていただけるだけでなく、多くの気づきをも与え続けていただいているからです。

自分が一人ではどんな癒しも満足にすることができないということは、痛いほどわかっているからです。

日常的なことでは、蛇口から必要なだけ飲むことのできるきれいな水やお湯を出すことができるということや、雨や風をよけるために快適な部屋があるということ。

宇宙レベルで言えば、限りなく奇跡的なこの地球の自然環境もそうですね。人間を含めたさまざまな生き物が存続できるあり得ないくらいに設えたものだと言えます。

幻想であるにしても、60兆個の細胞が複雑に機能を果たすことで成り立っている自分の身体にも感謝の念を感じることができます。

感謝は愛の一つの表現であると思います。自分が誰かに愛されているという感覚を持つことができること自体、大きな感謝を感じずにはいられません。

怖れの克服 その2

昨日のブログでは、非日常的なことや知らないことは往々にして不安や怖れがつきまとうものであり、従ってそのことを繰り返して慣らして行って日常的なことにしてしまえば、その怖れをある程度克服できるというお話をしました。

しかし、何度も繰り返して体験したとしても、怖さがなくならないという場合もあります。例えば、人前で話をするのが怖くて震えてしまうような人が、何度そうした経験をしたとしても一向に慣れることがないということもありますね。

理由は二つあると思います。一つは、経験の繰り返しが充分ではない場合です。繰り返したとしても間隔が空いてしまうと、経験がリセットされてしまい、いつまでたっても慣れるところまで行かないということがあります。

そしてもう一つは、本当の怖れの原因がその経験とは別のところにある場合です。つまり、その体験をすると元の怖れを想起させるというような場合です。

この怖れを克服するためには、根っこにある怖れが本当はどこから来ているのかということを突き止める必要があります。

例えば、声の大きい上司に怒られると、身体が凍りついたように硬直して動かなくなってしまうくらいに怖いという場合、本当に怖いのはその人ではない可能性があります。

もしかしたら、幼い頃にお父さんに大声で怒鳴られて身の縮む思いをしていた時の怖れを想起しているだけかもしれません。

そうした子供の頃の怖い体験から目をそむけていると、いつまでもその時の怖れから逃れることができなくなってしまいます。

このような場合には、かつての恐怖体験をなるべくつぶさに思い出して、大人の自分に再体験させてあげる必要があります。

それを繰り返して慣らしていくことで、日常的なその声の大きい上司への怖さを小さくすることができるのです。目をそむけたものを克服することはできないということですね。

怖れの克服

高校一年生の時の現代国語の教科書に、「日常性の欠如」という題名の文章がありました。それは、へびを怖がる人が多いのはその身体に我々人間が日常的に意識している手や足がないからだというものでした。

今から40年も前に読んだ文章のことを覚えているのですから、きっとそれは自分にとって何かひっかかる内容だったのだと思います。

怖れの正体について興味があったのかもしれません。私もへびは怖いです。噛まれたりしないし、危害をこうむることはないと保証されても何となく不気味な感じがします。

しかし、もしも毎日へびを見る機会が与えられたとしたら、今持っている怖さというのはきっと緩むはずです。見た目の怖さという点では間違いなく慣れてくるはずですね。

毎日通い慣れた場所に行くよりも、見知らぬ場所に行かなければならない時の方が緊張しますし、より不安になるかもしれません。

ずっと運転していなかったペーパードライバーの人が急に運転することになったら、初めのうちはやはり怖がるかもしれません。

自分が苦手な事や怖いと思うことを克服していく一つの手としては、それを日常的なことにしてしまうことです。

日常的とは繰り返すことを意味します。何度も繰り返してその経験をさせることにより、怖さというのは小さくなっていくものですね。

繰り返していくうちに、少しずつ怖さが減ってくると、今度はあまり怖くないという経験を繰り返しすることになります。

そうやって、気がつくと自分でもびっくりするほど何でもなくなってくるのです。私はかつてHP上でコラムを書き始めたときに、それを自分で読み返すのがいやでした。

不思議なことですが、みなさんに読んでいただくために書いて自ら公表しているくせに、あらためて読もうとするとへんな冷や汗が出たのです。

きっと自分の書く文章に自信がなかったのでしょうね。でも繰り返し書いては読んでを続けてきたおかげで、今では相当に図太くなったようで読み返してみても何の反応もしなくなりました。

怖さから逃げずに続けてみるということは、自分を鍛えるというより慣らして日常的にすることで怖さをある程度克服するものらしいです。

楽しい夢を見るコツ

子供の頃に、寝る前にこれから一体どんな楽しい夢を見ることができるのかなと期待しながら床に就くということがよくありました。

大人になってからはさすがに意識的にそういったことはしなくなりましたが、でも心のどこかで面白い夢、嬉しい夢、びっくりするような夢を見ることを期待している自分がいます。

逆に怖い夢、苦しんでいる夢は誰でもそうですが、見たくないと思っています。でも実際は眠って目が覚めて見ない限り、どんな夢を見ることができるのか分かりませんね。

しかし、これも子供の頃に考え付いたことなのですが、見たくない夢を見ないようにするには、寝る前に床の中でそのことをしっかり思い出すという方法があるのです。

どうしたわけか、この方法はほとんど功を奏します。もしかしたら、これは私の場合に限って使える方法でしかないのかもしれませんが。

寝る前にしっかりと思い出した内容は、決して夢には出てこないと言う法則があるのです。それもただ思い出しているというより、これが夢の中で出てこないようにと思い出すという意識が必要なのです。

ただ心配ごとなどをずっと頭の中でグルグルさせてしまったりすると、かえってそのことがそのまま夢になって現れてきてしまうことがあります。

その場合にも、今心の中で心配していることはこれだけしっかり思い出しているので、決して夢に出てくることはないだろうと意識して寝ることで回避されます。

この方法は、あくまでも見たくない夢を見ないようにする方法です。本当は、見たい夢を見る方法があればいいのですが、これは今のところどうすればいいのか分かりません。

寝る前にこんな内容の夢が見れたらいいなと思ってしまうと、先ほどの法則からその内容の夢は決して見ることができなくなってしまいます。

ですから、日中こんな夢が見れたらいいなという内容については、決して寝る前に思い出さないように気をつける必要があります。

そうすると、もしかしたらそれが夢となって現れてくれるかもしれません。みなさんもご興味があれば是非試してみて下さい。