共感する心と干渉する心

人は生まれながらにして、他人の気持ちを感じることができる能力を備えています。その証拠に、赤ちゃんは誰にも教えられずに、お母さんの心の状態を察知しています。

成長すると、気持ちを察知するというだけではなくて、能動的に相手の思いや気持ちに対して共感することもできるようになります。

共感してもらった人は、自分を受け入れてもらえたという安心感をもらうことができるために、相手と心が通じたという気持ちになるのです。

これが人と人との心の交流には欠かせない要素であることは間違いありませんね。お互いが自分の言いたいことを言い合うだけでは、決して心を交わすことはできません。

しかし、この共感することについては、その能力があるからといって、常にそうできるとは限りません。なぜなら、共感するには相手を思いやる優しさがなければならないからです。

つまり、相手に対する暖かな気持ち、相手を尊重する気持ちを持っていなければ、元々備えている共感するという能力を発揮できなくなってしまうということです。

例えば、親が子供を育て上げるのは一口では言い表せないくらいに大変なものです。ちゃんと育てなければならないし、危険から守らなければなりません。

そして、不安を持って子供に接する親の場合には、愛をもって子供に共感する心の余裕がなくなってしまうかもしれません。

その代わりに、あれこれと子供に対して干渉してしまうようになるのです。何でもできる大人の自分が子供を守り、子供に正しさを伝えたい気持ちが強ければそれだけ干渉する割合が増えてしまうのです。

過干渉の親はこうして、共感的ではなくなってしまうということです。つまり、共感するか干渉するかのどちらかになってしまうということです。

心の余裕のある親は必ず愛を使えるために、子供を見守りながらも余計な干渉をせずに共感的に接することができるのです。

子供にとっては、どちらのタイプの親に育ててもらうことができるかは、本当に大きな違いとなってしまうはずです。

沢山の干渉を受けて育ってしまうと、共感されずに育ってしまうということをも意味しますので、自己肯定感が育ちにくくなってしまうのです。

そこからあらゆる人生の苦悩が起きてくるのです。自分の心の奥に自己否定の塊を感じることができるなら、それを何とかしようとすることをやめて、ただその痛みを見ることです。

自己否定感を払拭して、自己肯定感を増やそうとする企てをすべて中止して、ただただその痛みに目を向けて見ることをお勧めします。