理性が観念するとき

瞑想しつつ、心が静まってくればくるほど、如何に自分が理性に権威を与えてしまっているのかということに気づくようになります。

私たちは気づかぬうちに、理性の力である理解力というものに自分の最高権威者としての地位を授けて、それに依存して生きているのです。

その表れとして一番馴染み深いものは、自分の正しさによって自己防衛しようとすることです。これは本人が気づいているかどうかに係わらず、誰もがしていることです。

一方、理性は人間が持つとてもすばらしい恵みであるとも言えます。理性をうまく使いこなすことによって、他の動物ではとても為しえないことを人間はやってきたのですから。

問題は、理性にあるのではなくて、それに妄信してしまったことなのです。理性が遠く及ばないことについては、その存在を簡単に否定してしてみたりするといったことです。

私は瞑想中に普段とは違う感覚や意識状態になると、それを何とかして理性で理解しようとしている自分を見つけることができました。

これはもしかしたらこういうことかもしれないとか、とにかくいちいち解説が入ってくるのです。そのときに、どれほどの理性を働かせたところで真実には届かないと思いとどまるのです。

そして、その理性がどんな解釈も及ばないと本気であきらめたときに、何やら形容することのできない何かを感じることができます。

理性が考えられる最高のものとは、理性自身がみずからの力の範囲を真摯に理解することです。あらゆる本質は、理性では決して届かないと見切ることこそが理性のできる限界なのです。

真実はあまりにも大きく、そして広大なので理性では手が届かないし、それはあまりにも近すぎて理性には見ることができないし、それはあまりにもシンプル過ぎて理性には解釈することができないのです。

そのことを完全に理解したとき、理性は観念するに至ります。それはあらゆる責任から開放される何とも言えない清々しさです。重い荷物を一気に肩から降ろした感覚です。

ひれ伏すことの無限の安心感、理性が静かになった時、それはやってきてくれます。そのために、思考を停止する必要もなければ、正しい姿勢で瞑想する必要すらありません。

これが多分明け渡しの感覚なのではないかと思います。