人生をコントロールすることはできない

赤ちゃんや幼児の頃は、全権を親に委ねて生きています。つまり、親のコントロールの下で生活の安全を保障されているわけです。

ところが、3歳くらいになってくると、自分というものの自覚がぼんやりできてきて、それに付随して親というのは自分とは違う対象であると理解するようになります。

そうすると、すべてが親のコントロールに従っていることに、不安を感じるようになるものです。なぜなら、自分と親の好みや考え方、感じ方にずれがあることを知るようになるからです。

そうなったら、自分を守るために自分のコントロールを保とうとする努力をするようになります。親の意向(コントロール)に従っていては、不満を感じるということに気づくからです。

そして出来るだけコントロールを失わないようにと頑張るのです。例えば、いくらせがんでも欲しいものを買ってもらえないとしたら、それは親のコントロールに屈することになります。

そこで、自分はそれをいらないと思っているのだと自分を騙してまで、手に入らないことを自分のコントロールであることにすることもあるかもしれません。

また、成長していく段階では、親だけでなく社会などから、なるべく多くコントロールできるようになることが人としての成熟だと教えられるのです。

そして、自分の思うとおりに人生を切り盛りできるだけのコントロール能力を身に着けることこそが大切なことだし、そこに人としての価値があると考えるようになっていくのです。

残念ながら、そこにこそ私たちの苦悩の原因があるのです。私たちがコントロールできることと言えば、ごく限られた物事の表層の部分に過ぎません。

息を止めようと思えば、しばらくの間は止めていることもできますが、ものの数分と持たないはずですね。逆に自分のコントロールなしで、呼吸はずっと続いていることは誰もが知っています。

明日自分の身に何が起こるか知っている人は誰も居ません。私たちにできるのは、所詮予測する程度のことだけです。つまり、人生をコントロールすることは不可能なのです。

それなのに、自分の人生をコントロールできると信じてしまっているからこそ、そこのずれを何とかしようとして苦しむことになるのです。

本当に苦しみから解放されたいと思うのであれば、コントロールは不可能なのだと徹底的に理解することです。根本的なことほど、コントロール不能なのですから。

コントロールできないことを認めると、もしかしたら大きな恐怖に襲われることもあるかもしれません。その恐れすら、私たちはコントロールできないのですから、それをそのままに見るのです。

船が大きな波に揺られている時には、その上にいる人の内耳にある三半規管が自動的に平衡を保とうして頑張ってしまうために、船酔いが起こるのです。

コントロールをすべて放棄することです。不可能なことを不可能だとして、そのままに認める勇気があるでしょうか?