これは前にも書いたことなのですが…。最近よく瞑想をするようになったのはいいのですが、少しの時間静かにしていればほとんどの想念は治まってくるのに、一つだけしつこいのがあるのです。
それは、バックグラウンド的にずっとメロディを奏でている想念なのです。それはもう、絶えず流れていて、いろいろな曲をランダムに聞かせてくれるのです。
今朝聞いたメロディだったり、ちょっと前に口ずさんでいた曲だったり、一年前のヒット曲だったり、あるいは何十年も前に聞いたことのあるすっかり忘れていたものだったり。
ジャンルもクラシックだったり、ロックだったり、歌謡曲やそれこそ童謡などありとあらゆるものが含まれて、なんだか有線放送のような状態です。
しかし、そんなまともなものであるはずもなく、どこかのフレーズを延々とリピートしていたりとその内容は滅茶苦茶なのです。
それをストップしようとすれば、すぐに止まるのですが、またすぐにいつの間にやら気が付くとメロディが流れているといった状態なので、最近ではもう気にしないようにしていたのです。
ところが、今日瞑想中にあることをしてみたところ、それがピタッと止まったのです。それは、自分の死についてとことん見つめてみるということをしたのです。
これは無念無想とは全く違うので当然といえばそうなのですが、まったく自前有線放送は姿を消してしまいました。
そして、自分からすべてのものが奪われていく感覚、何一つ残るもののない完全なる喪失をずっと感じていたときに、恐怖と同時に一種の清々しさを感じたのです。
勿論最後の最後まで死を味わい尽くすまでには至ってないのですが、それでも完全なる静寂さの片りんを感じることができました。
そして、巾着のようにくっついて離れずにいた想念すら、そこでは生き延びることができないということがわかったのです。
私たちは、これほど確定していることは他にないと知っていながらも、自分や大切な人の死について目を逸らしてしまっているのですね。
私たちが不当に苦しむときには、常にこの死に対する恐怖から目を背け続けることが原因であると言ってもいいのです。
過去からやってくるあらゆる想念は、死から逃れるための様々な作戦を携えて今の自分に働きかけてくるものなのです。
充分に死と対峙することができたら、こうした想念に巻き込まれることがなくなるはずです。それが今に生きるということであるのです。
それこそが、過去が作ったストーリーの中でもがき苦しむことから、本当の人生を生きるということへの大きなシフトなのだと思うのです。
そこには、「私」が生まれる前から、そして「私」が生きて死んだ後も、ずっと変わらずに在り続ける本質の自己への意識のシフトがあるのです。
「私」の死をできるだけリアルに、正面から見据えることによって、誰もが急速にもっとも身近に在り続ける本当の自分を見ることができるかもしれません。
それこそは、「私」と「私」のストーリーの死であり、真実の生を生きるということになるのだろうと思うのです。