自分を騙す代償は大きい

開き直って言うわけではないのですが、人は嘘をつくものですね。それが、他人に対してであろうと、自分自身に対してであろうと…。

あ、嘘という字は、口へんに虚しいと書くのですね、今気づきました。なるほど、嘘をついていると確かに心が虚しくなってきます。

それも、二度や三度ではなくて、最初の嘘を取り繕うために次々と嘘をつく必要が出てきて、雪だるま式に嘘が増えていくと、いつか耐え難いほどの虚しさを感じるのです。

人に対する嘘の「ツケ」の主なものは孤独です。なぜなら、周囲の人に本当の自分を見せることがないのですから、本人の心は間違いなく孤立していくことになるはずです。

それに対して、自分自身に対してつく嘘というのは、もっともっと問題は深刻になってしまいます。なぜなら、それは自分を生きることができなくなってしまうからです。

つまり、嘘をついている自覚がなくなってしまうために、一体自分は誰なんだろうと思う瞬間が必ずやってくることになるのです。

そのときに、どこにもこれが自分なのだというものを発見することができずに、心は路頭に迷うことになってしまいます。

以前コラムか何かに書いたことがあるのですが、極端な表現をすれば、「人を騙してもいいけれど自分を騙してはいけない」というのがあります。

自分に対して嘘をつく、自分自身を騙すことを幼いときから続けてきてしまうと、本当の自分が育つことができなくなってしまうのです。

自分に騙されている表面上の自分は、案外元気なはずです。なぜなら、都合の悪い自分のことを知らずに生活することができるのですから。

しかし、その元気な自分はとても脆いのです。自分の芯となるものと結びついていないのですから。両者は、嘘によって離れ離れになってしまっているのです。だからこそ、ひどい虚しさを伴うことになるのです。

いつかは、本当の自分、まだ育っていない自分に気づき、そこから自分に対して真正直な人生を生きる決意をすることが必要なのです。

すべては一つの意識から現象化する

昨日のブログで、自分は身体ではなくて意識であるということを書きました。人間の場合は意識だとしたら、他の動物はどうでしょうか?

犬には意識があるでしょうか?もしも、あなたが犬を飼っているのでしたら、間違いなくうちのペットには意識があると知っているはずです。

猫だって同じです。ペットに限らず、あらゆる動物が意識を持っています。では、この犬とあの猫ではそれぞれ個別の意識があるでしょうか?

私は同じ意識なのではないかと考えています。つまり、あらゆる動物の意識は個別にあるのではなくて、たった一つの意識を共有していると思うのです。

そして、実は植物であっても、鉱物であっても同じように、その一つの意識を共有しているに違いないと思っています。

別の表現をすれば、この世界で起きているあらゆる事象あるいはすべての物質は、その一つの意識の上で現象化しているのだということです。

その大いなる意識のことを他のどんな言葉で表わしたとしても、それ自体を明確に表現することは不可能なことなのです。

我々人間はどうなのでしょうか?意識だということは分かったとしても、個人個人で個別の意識を持っていると思い込んでいるのですが、真実はやはりその一つの意識を共有しているのです。

ところが、人間だけが「私」という想念を持つことになってしまったために、一人ひとりが別々の意識で生きていると錯覚しているに過ぎないのです。

あなたの本当の意識は、あなたの飼っているかわいいペットちゃんと一つの意識を共有しているということです。

あなたの本質としての意識は、この世界のあらゆるものの背後にある意識と一つものなのです。このことに気づくことができたら、それが愛だと分かるはずです。

自分が身体かどうか検証する

自分というのは、意識に違いない、他の何ものでもないということにずっと注意を向けていたときに、ふと身体が得体の知れない不気味なものに思えてきたことがありました。

何だか、自分という意識の周辺に、ひょろ長くて何とも気持ちの悪い物体が野放図に置かれているというような感覚です。

勿論そんな変な気持ちはすぐに消えうせてしまったのですが、あまり今まで経験したことのない感触でした。

身体というものは、それ自身では完全に中立であり、主体性のないものですからただ主人のなすがままなものなのです。

したがって、身体がいいとか悪いということは全くないのですが、ずっと自分とは身体だという思い込みをしてきたために、それを心から否定した瞬間にものすごい違和感が来たのでしょうね。

大人になって、こんなことを真面目に試してみるような人は自分以外にはいないかもしれませんが、子供の頃というのは案外いろいろな体験をしているものです。

もしかすると、多くの人が幼い頃に変な経験をしていて、でもそれを親に言ったところで分かってもらえるはずもなく、自分の心に留めているうちに忘れてしまったということがあったかもしれません。

みなさんは、自分が意識であるということを認めた上で、それでも自分は身体なのだという矛盾についていくことができますか?

一体どうやって、意識と物理的な身体の関係に納得のいく説明をすることができるのでしょうか?くだらないことだとは思いながらも、一度そのことに本気になって向き合って見て欲しいのです。

自分とは意識でもあり、身体でもあるなどということが本当にあり得るのかと考えて見れば、そんなことは不可能だと分かります。

どちらか一方であればあり得るかもしれません。しかし、自分が身体だとしたら、身体がどうやってこれが自分自身なのだと言えるのでしょうか?

それも不可能なことだと分かります。つまり、自分は意識であって断じて身体ではないということになるということですね。

身体ではないと分かれば、自分は決して傷ついたり消滅したりすることはできないということがわかります。ましては、生まれたこともないのです。

こうしたことを、誰に言われるまでもなく、自分独りで検証して納得することがとても大切なことです。誰の言うことも信じないで、肯定も否定もせずにただ検証することです。

途中でやめる勇気

いつ頃だったか、「もったいない」という言葉が脚光を浴びた時がありました。元首相の小泉さんが言ったので話題になったのかもしれませんが…。

確か、物を大切にする日本人の心を表現しようとして使った言葉だったように記憶しています。使い捨て時代に一石を投じた言葉だったのですね。

この「もったいない」という言葉には、まだ充分使えるのに(まだ食べられるのに)捨てるなんて、「もったいない」という以外に、もう一つ別の意味で使われることがあります。

それは、せっかくここまでやってきたのに、途中でやめてしまうなんて「もったいない」と言う時の使い方です。

例えば、ピアノを習っている子供が、どうしたわけか急にいやになって、習いに行くのをやめたいと言い出した場合に、それを何とか引きとめようとして先生や親が「もったいない」と言ったりします。

もう少し頑張って続ければ、随分と上手になるはずなのに、ここまで一生懸命真面目に通ったのに「もったいない」というわけです。

チベットかどこかの寺院で実際に行われていることですが、修行僧たちが砂で精密な何かの建物の模型を創るのですが、それはもう大変な労力と手間をかけてすばらしいものを創るのです。

ところが、出来上がりかけた時に、師がやってきて無造作にあっという間に崩してしまうのです。見ているこちらがびっくりして、何てもったいないことをと思わず叫んでしまいそうになります。

しかし、それは修行僧たちの心にある、「もったいない」を手放す修行の一部なのです。つまり、「もったいない」とは執着心の一つだということなのです。

そして、何かをやり遂げるとか、為しえた成果などに執着するなということの教えなのだと思うのです。これはとても大切なことです。

どれだけ我慢をしてきたか、どんなに頑張って努力を積み重ねてきたのか、そうしたことに拘ることなく、やめたいと思ったときには潔くやめることです。

結果を求めることをやめれば、これはそれほど難しいことではないと分かります。どんなことでも、途中できっぱりと見切りをつけるということです。

何年も緻密な計画を練って、身体を鍛えてエベレスト登山に挑戦したあるプロの登山家のことを思い出します。

彼は、後もう少しで頂上だという時に、天候の急変によって頂上まで行ったら帰って来れなくなると知り、頂上をすぐ目の前にして引き返したのです。これがプロの登山家なのですね。

いつ何時でも、途中でやめることができるのであれば、それは心の中に執着がない状態であるということが言えます。あなたは今続けていることを、いつでも途中でやめることができますか?

あともう少し、もうあとわずかだから、そこまでやってからやめたいと思うのではないですか?あるいは、ここでやめたら一生後悔が残ると感じてやめられないことはないですか?

この執着こそが、輪廻転生の原動力になるとも考えられるのです。無執着になるのは、なかなか難しいことだと思いがちですね。

でも、今この瞬間にやめると決意することです。もう少し様子をみてからとか、もっと結果を残してからとか、いいわけをせずに今やめるのです。

それが本当に自由になるための秘訣です。

知覚の届かないところ

私たちは、夢の中に出てくる自分とその夢を見ている自分自身が出会うことはないことを知っていますね。なぜなら、夢から醒めたときには夢の中の登場人物はすべて消えてしまうからです。

それと同じように、 この「私」はどれほど修行を積んだとしても、真実の自己に出会うことは不可能なのです。なぜなら、一方は単なる想念であり、もう片方は実在だからです。

一般的に、この「私」が単なる想念なのだということは、受け入れがたいことかもしれません。自分というものは、ここにこうして厳然としていると思っているからです。

今自分は、部屋の中に居る、外を歩いている、日本にいる、という具合に必ず、そして確実にどこかに立派に居るわけです。

確かにこの身体はどこかにあるわけですから、自分のことを身体と同一視している限りは自分はれっきとした一つの存在だと思えるのです。

そしてその同一視は、その上に瞬く間に心やそれ以外の沢山の体験を同一視し続けることによって、一人の人物としての自分が出来上がるのです。

その体験を根底で支えているのが知覚です。外的な知覚と内的な知覚の両方を休むことなく使い続けながら、体験を蓄積していくわけです。

しかし、真実の自己のレベルには、どんなに知覚を駆使したところで届くことはありません。なぜなら、それは知覚の手の届かないところに在るからです。

だからこそ、この「私」が知覚を使って生きている限りは、真の自己のことに気づくことはできないということなのです。

知覚の届かないところ、それは近すぎて知覚できないところに在るのです。知覚する対象のないところに、真実の自己は隠されています。

本当は隠されているのではなく、知覚を放棄したときに直接体験することができるのです。それはいつでも私たちにその実在が示されているのです。

「今」とは時間のことではない

「今」という言葉の意味を把握することはとても難しいことです。なぜなら、私たちは大抵「今」というのは時間にまつわる概念だと思い込んでいるからです。

時間というのは、過去から刻々と進み続けながら現在(今)を通り越して、そして未来へと無限に続くものだという観念を誰もが持っています。

そのために、過去と未来のちょうど中間点として「今」というものがあるのだと錯覚してしまうのですが、実は「今」とは時間そのものとの関連はありません。

この世界は、様々なことが起きる現象界であると考えることができますが、そうしたあらゆる現象が起きては消えていく土台こそが「今」なのです。

どんな事象であろうと、「今」という土台から逸脱したところでは現象化することは不可能です。その一方で、すべての事象が時間の中で起きるということも忘れてはなりません。

つまり、事象とは時間という要素を必要としながらも、それが起きては去っていく舞台、その土台としては「今」がなくてはならないということです。

これで明確になったと思いますが、「今」とはこの現象界のバックボーンなのです。森羅万象が起きては消えていく無限に大きな入れ物のようなものです。

その入れ物自体の中味は勿論空っぽでなければなりません。何かが元々入っていたら、この現象界の邪魔をしてしまうからです。

この入れ物の空っぽさこそが、仏教で言うところの空(くう)であり、禅でいうところの無ということになるのはないでしょうか。

つまり、「今」とは空(くう)や無と全く同じことを違う言葉で言い表したに過ぎなかったのです。そして、その「今」とは何を隠そう本当の真実の私たちの姿そのものなのですね。

自分のことを肯定することが難しいと感じて苦しんでらっしゃる方々にこの感覚と出会って欲しいのです。あなたが否定し続けているあなたは、本当のあなたではありません。

大海原の上に一瞬発生した小さな波の一つを自分と同一視して、他の波と比べて自分は卑小で取るに足らない存在だと悲観しているのです。

でも、他の波や自分という波そのものを見る代わりに、もっと奥にある大海原に気が付けば、それこそが本当の自分の姿だという直接体験ができます。

あなたの本質は、あれでもこれでもない、誰でもない、この宇宙を創造し続けている「今」なのだということです。

「探す」と「捜す」の違い

皆さんご存知の通り、「さがす」という漢字には二つのものがありまね。「探す」と「捜す」です。どのように使い分けるか私は最近まで知りませんでした。

「捜す」の方は、既知のもの、すでにあったもの、紛失したもの、そういった特定のターゲットに対して、それを「捜す」というときに使うということらしいです。

例えば、昨日入社した新入社員が広いオフィスの中で迷子になってるようだから、「捜して」連れ戻して来て欲しい、などです。

つまり捜す相手が決まっているわけですね。したがって、紛失したお財布を捜すという場合もこの漢字を使うわけです。

一方、人手不足だから新入社員を雇わなければならないので、どこかに適材がいないか今探しているという場合には、この「探す」という漢字を使うのです。

これは、どこの誰かはまだ決まっていないので、つまり未知の人を探すわけです。上記の例と比べて、そこが違うということです。

ある男性が花嫁を募集しているのであれば、彼が結婚相手を「探す」となるし、彼のお嫁さんが失踪してしまったら、彼の結婚した相手を「捜す」となるわけですね。

ところで、自己探求という言葉がありますが、この場合は、「探」の漢字が使われるということは、自分にとっては未知の自己を探すという意味あいがあるということになります。

今まで見たことも聞いたこともない本当の自己を探すということであれば、この「探す」で問題ないのですが、それは本当なのでしょうか?

最近では、この自己探求という場合に、本当は意識の深い部分で本質の自己のことに気づいているはずだとの思いが強くなってきているのです。

そうなってくると、自己探求は、自己捜索という言葉の方がより適しているのではないかと密かに考えたりしています。

本質の自己は、人物としての「私」よりも、もっともっと近くに在るものだということです。それは、探す必要など決してないものなのです。

それどころか、何かを探すことを徹底的にやめることによってのみ、出会うことができるのだと思うようになったのです。

理解力は無駄ではない

人間が持つ理性の働きというのは、とてもすばらしいものです。理性によって理解力というものが生み出され、人類は文明や科学を発展させてきたわけです。

この理性による理解力のベースとなっているものとは何でしょうか?それは知覚です。知覚によって、理解するための情報を取得することができるからです。

それでは、この知覚のベースとは何でしょうか?それは分離に違いありません。知覚が起こるときに、私たちの理解では、知覚する主体と知覚される対象とが存在することになるからです。

つまり、理解力の大元とはこの世界のベースとなっている、分離に帰結すると言うことが分かります。ところが皮肉なことに、この分離こそが我々のすべての苦悩の原因であるということもわかっています。

ということは、理性による理解力が活躍できる土壌には、分離というあらゆる苦悩の根本原因があるということになるのです。

このことを真正面から認める必要があります。私たちは、理性や理解力そのものを否定的に取り扱う必要は全くありません。

しかし、自分の幸せについてもその理性によって理解できると錯覚してしまうことが、大きな間違いであることに気づかなければなりません。

残念ながら、多くの人ができるだけ沢山のことを理解することで、自分の幸せを手に入れられる可能性が高くなると勘違いしてしまっているのです。

これは私の主観に過ぎないのですが、こうした傾向は特に男性の場合に強く現れているように見受けられます。

しかし、女性の場合においても、男性ほどあからさまではないというだけで、やはり「分かっている」ということを愛と切り離して考えることは難しいようです。

理性によって、真実あるいは本当の幸福を理解することはできません。自分の本質を理解することなど、到底不可能なことだということです。

逆に、自分の理性を真実である自分の本質に使ってもらうようにすればいいのです。これこそが、本当の明け渡しなのではないかと思うのです。

明日への期待をやめる

じっと静かにして、自分の心を感じていると、そこには漠然とした不満が横たわっていることに気づきます。具体的に何がというよりは、心そのものが不満で出来てでもいるかのようです。

そして、それに関連してなのか、未来に対して何らかの期待を持ってもいると分かります。これまでの不満を解消する何かがやってくるのではないかという期待ですね。

一体どんなことを期待しているのかを、具体的に無理やり考えつく限りあげてみようとすると、例えば人との出会いというのがあるかもしれません。

すばらしい人、真理を教えてくれるような人、大切な気づきを与えてくれる人、そんな人が現れてくれることを期待している気持ちがあるかもしれないです。

あるいは、もっと直接的に今持っている漠然とした不満を払拭してくれるような何かの体験だとか、健康な身体を取り戻すことなどがあるようです。

こうして見てみると、大抵が「私」としての心棒は変わらずに、外側から何かがやってきてくれるとか、ただ問題と思われている箇所が修繕されるというようなことであるようです。

しかし、こうした期待を持っている限り、それ自体が不満を維持し続ける元となるということに気づかねばなりません。

したがって、明日こそ素晴らしいことが起きますようにという願いは、今すぐにでもやめる必要があるということです。

明日は素晴らしい日でありますようにというのも、何となくピントがボケています。それよりも、明日が素晴らしい日であると気づけるようにとの願いの方がまだいいかもしれません。

そしてもっと素晴らしいことは、不満を持っていると感じているこの「私」は、本当の私ではないと気づくことです。

この気づきは、明日まで先延ばしにする必要もありません。本質の自己から、ほんの一瞬「私」が発生して、しばらくは不満と明日への期待を持ちつつ活動し、そしてその中へとまた消えていくだけなのですから。

二種類の恐れ

癒しにおいてよく言われることですが、恐れから逃げずに恐れとしっかりと向き合うことがとても大切なことなのだと…。

耳にたこができるほど、何度も形を変えて言われてきた言葉だと思います。それでも、いざとなると恐れに立ち向かうのは腰が引けてしまうものですね。

恐れといっても、動物でも感じるような反射神経的なものと、心理的な恐れというものとの二種類があるということは明確にしておくべきことです。

前者の恐れとは、例えば崖っぷちに立ったら足がすくむなどして、身体ごと反応してしまうようなもののことです。

生物としての自己防衛本能による恐れであるので、これを何とかしようとしてもそれは無理なことです。勿論、何ともなるはずもありませんね。

癒しで取り扱う恐れとは、後者のことです。つまり、心理的な恐れのことです。それは、罪悪感とも密接にからんでいますし、不安感や自己嫌悪感などの否定的な感情と結びついています。

生命の危険とは直接関連しないはずである、こうした心理的な恐れについて、それを自分が今までどうしてきたかを深く感じてみる必要があると思います。

そして、恐れから逃れようとしてやってきた自分なりの対処法に気づくことです。あなたの方法は他の誰かの方法と似ているかもしれませんが、詳細に見ていけば自分独自のものを持っているはずです。

そうした対処法に気が付くことができたら、それをやめるという選択をすることができるのです。上の方で書いた、恐れに立ち向かうというのは本当は違います。

立ち向かうのでも、逃れようとするのでも、無視をするのでも、そのどれでもなく、ただ恐れの中でじっと耳を澄ましていればいいのです。

このもっとも単純であまりにも何もしないということが、実は一番難しいと感じてしまうのは、我々の理性が物事を対処するようにできているからです。

決して理性を使わずに、ただただ、そこに居るだけでいいのです。恐れとリンクしているストーリーや言葉などをすべて脇に置いて、ただ入っていくことです。

そのとき、きっと恐れがどんなものなのか分かるはずです。それは驚くべき結果が提示されることになるのです。

そして、恐れの正体が分かると同時に、自分の本当の本質にも気づくことができるはずなのです。