自由意志がないことの検証 その2

少し前に、このブログで自由意志などないということを書きました。そのことについて、もう少し、補足というか明確になったことがあるので書いてみようと思います。

自由意志の存在を否定するために、逆に自由意志があるとして、我々はいつどんなことで自由意志を使っていると感じるのかを検証します。

それは勿論、何かを決意するときですね。ほんの些細なことであったとしても、たとえばトイレに行こうというようなことにしても、決意していると思っているはずです。

私たちが何かを決意するということを、少しばかり深く見てみると、二種類のケースがあると気づきます。

一つは、その決意をすることに至った理由なり、原因がある程度分かるような場合です。こういったいきさつがあって、これを決意することになったという場合です。

その理由が明確であろうと、曖昧であろうと、いずれにしても何らかの原因があって、決意するという結果があるということです。

けれども、この場合に自由意志が使われていると感じるのは、単なる主観ではないかと思うのです。なぜなら、理由となる原因は、前もって与えられていたものだからです。

それは、生まれ持ったDNAと、生育環境などから与えられた条件付けの組み合わせによって、私たちは個人個人で反応の仕方が決まってくるのです。

その反応を持ちつつ、現在の状況が与えられた結果として、自分は決意したというように考えることはできないでしょうか?

与えられている条件があまりに複雑であるために、それを一つひとつ解明することはできませんが、原理的には充分理解できることだと思います。

そしてもう一つの決意するケースですが、それはそれを決意した理由がまったく自覚できないという場合です。

例えば、右と左のどちらを選ぼうにも、自分の中に選ぶための理由付けをすることができないようなケースがありますね。

それでも、最終的にはどちらか一方を選択するという決意が起こるのですが、それこそ自由意志などとは呼べないようなものではないでしょうか?

その結果は、どこかからやってきたとしか、いいようのないものです。何の理由も見当たらない決意ほど、自由意志と結びつかないものはありません。

というわけで、どちらの場合であろうと決意するという事象が起きたときには、自由意志があろうがなかろうが、それはただ起きたのです。

それは結果として、自由意志などないということになるのではないかと思うのです。これは、私の勝手な解釈ですので、鵜呑みには決してしないようにして下さい。

それどころか、充分に疑いを持って、自ら検証してみることをお勧めします。なぜなら、自由意志があるかないかという問題は、人生が根幹から変わることになる可能性があるからです。