八方塞がり感を観る

そもそも自己探求を始めた理由とは何だったんだっけ?という声が聞こえるようです。それは、勿論真実を知りたいという欲求だったはず。

それと、ホンモノの自由というものを知りたいということでした。けれども、残念なことに探求が進むごとに、その両方とも不可能だとわかったのです。

不可能というのは、この自分にとっては不可能だということです。なぜなら、自己探求の邪魔をしているたった一人の張本人は自分だったからです。

そのことが頭の理解だけでなくて、感覚でやってきてしまったので、何だか今までのような探求のエネルギーが萎んでしまいそうです。

後は何と言うか、それが方向付けられてしまったので、惰性を利用してこのまま探求し続けるという感じになっていくのかもしれません。

ワクワク感はまるで消えうせた感があります。でもほかには、全く持って何の興味も最初から持ってなかったし。

本当に覚醒しても、幸せになることはない。それは、幸不幸がなくなるということ。幸不幸を感じる自分がいなくなってしまうからですね。

かといって、いいことばかりが起きて、悪いことが起きなくなるなどという都合のいいことも決してないわけで。

生きていることにまだ未練が残っているとしたら、探求することがあったからなのですが、探求する本人がいなくならなければ探求は終わらないし。

意外と八方塞がりな感じがしないでもありません。この八方塞がり感をゆっくりと時間をかけて、観ることにでもしてみたいと思います。