誰の言葉も信じることなかれ

私たちの信念体系というものは、何かを信じることで成り立っています。そして、それを固く固く信じることで、あたかもそれが真実だとして、その上に思考体系が出来上がるのです。

私たちは、自分の思考を信じています。それは例えば自分の正しさというものを信じているということを見れば、すぐにそうだと分かります。

それは生きる拠り所のようなものです。何か、こうだと信じれるものが核としてなければ、不安で仕方なくなってしまうからかもしれません。

自分の思考を信じなくなれば、思考が止まらないなどということは起きなくなります。思考を嫌うのではなく、そのまま信じないという態度です。

もしも、真実を知りたければ、まずは誰のどんな言葉も信じないという態度が必要です。そして、真っ先に自分の思考を信じないとすることです。

自分の正しさを信じなければ、自分や誰かを裁くということが激減するはずです。そして、信じないことから、いい意味での、正当な疑いが発生するのです。

疑ってかかるということは、ともすると否定的な響きがあるように感じますが、疑うことによって相手の言葉をまっすぐに聴くことができるのです。

私のところに来て、私をいとも簡単に信じてしまう人は、概して私の言葉をしっかりと聞いていないということが分かります。

コイツの言うことは疑わしいけれど、それなら自分で体験して検証することだという意識になっていただきたいのです。

信じるとは、信じないことと瓜二つです。それは、相手の言動に対しての自分の信念体系から来る偽りの状態です。

それに対して、信頼は相手の存在に対する気持ちであって、信じることとはまったく別のものだと理解することです。

自分の思考も、誰の言葉も決して信じてはいけません。エゴはエゴ自身を信じさせることによって、苦悩を生み出させてきたのですから。

本当は、信じないということが大切だと言いたかったのではなく、自分が信じているということに気づくことこそが大切なことなのです。目指すは、信じるか信じないか、ということからの脱却です。