毎日の終わりに、その日一日の自分の行動を思い出して、どんなことをしたのか、どんな気持ちになって、何を選択したのかを追う作業をするようにしていました。
自分の外的な行動や内的な動きというものを、見つめるクセをつけてしまうと、この作業は意外と簡単なものとなるのです。
そして、単なる流れの中で自分が生活していることがほとんどだと気づかされます。それはもう、自分が主役というよりは流されて自動的に次々と物事が起きているということです。
そこには、自分独自の選択というものを見出すことはできません。けれども、ほんの少しだけ自分が決意して、次の行動を起こしたという感じがする場面もあります。
そこをよく見つめてみるうちに、自由意志による選択、決断て何だったっけ?という感覚になってしまったのです。
あれほど、自分は誰とも違う自分固有の意志を持っていて、自由に決意することができるはずだと思っていたのですが…。
今の感覚を素直に表現すると、あの選択がやってきた、あの決意が起こったというようにしか言えないということがわかったのです。
それは、例えて言えば「所有する」ということを当たり前の概念として、取り扱っていたものが、最近では所有という事実はないとしか言えないと分かったのに似ています。
所有とは、みんなで共有する「申し合わせ」に過ぎません。みんなで、示し合わせてこれはあなたのもの、あれは私のものと決めているだけです。
真に所有するとは、それと一つになる以外に方法はありません。したがって、この世界には真の所有というものはないということです。
それと同じようにして、自由意志による決意とは、そうした決意がやってきただけということになってしまいました。
どれほど重大な決断をしたとしても、それは単にそうした決断がやってきたということです。みなさんはどう思われますか?