正直に自分と向き合う

癒しを進めていくためには、ご本人が真剣に取り組むという姿勢がやはりどうしても必要です。したがって、ご家族の誰かが問題を抱えていても、ご本人が乗る気でなければセッションにいらしてもほとんど効果は期待できません。

特に、10代前半から半ばくらいのお子さんの場合には、まだまだ自分を癒していくという発想を持つことが難しいのです。私の経験では、10代後半でもまだ難しい場合が多いです。

ご家族が心配するのも無理はないのですが、焦ったところでいい方向に進むことには決してならないばかりか、ブレーキになりやすいのです。

お子さんの側が、問題が解決してしまえばそれでいいと思っている親の本音に気づいてしまうからです。

その問題は、本当の問題に気づかせるための単なる仕掛けであって、その奥にある目には見えない本人の心の叫びに気づいてあげなければならないのです。

そこに気づくためには、家族の方こそが見てみぬふりをしてきた自分自身の問題に目を向けることしかありません。

子供は、自分が犠牲となって家族というシステムの問題を映し出してくれているという観点を持つことが大切なのです。

そこに直面するのを拒絶するために、子供の癒しを進められずに終わってしまう親を何度も見てきました。

真に愛する家族のために、そして本当は自分自身の癒しのために、もう逃げることをやめて、一人ひとりが正直に自分と向き合うことなんですね。

至福の時間

昨年の12月にオフィスを引越ししたことで、いろいろなことが一度にドッと押し寄せてきて、それらが一応収束するまでに結構な時間がかかりました。

それでも今月に入ると、そうした煩わしい事柄がなくなってしまい、また今までどおりのごく平凡な毎日がやってきています。

その毎日とは、ほとんどやらなければならないことがないという、忙しく身体を動かしていなければ気がすまない人にとってはほとんど拷問のようなものに感じるかもしれません。

本当に毎日何も特別しなければいけないことがないのです。ただ、仕事の予約が入ったらそれに従ってセッションをこなしていくのみです。

そして時間のあるときには、スポーツクラブへ行って水泳少々と大好きなサウナに入るという毎日になりました。

今は、セミナーもやらなくなったし、講座もやってないですし、何一つイベント事がなくなってしまっているというのも、一役買っているのでしょうね。

まとまった時間を取って、瞑想に当てるということもなくなりました。その代わり、日々のあらゆる瞬間に、自分の本質に注意を向けることができるのです。

何も生産的なこともないのですが、私にはやはりこうした日々が合っているのかもしれません。サウナでの自己への注意は殊更意義深いものがあります。

いつしか、自分が身体であるなどという思い込みは、どこかへ行ってしまったようです。彼方に在る真の自己に憩うことが、至福の瞬間ですね。

自分の正しさなんて その2

いつのことだったか、アメリカの有名なフットボールの選手が、死ぬ間際のベッドの中で、「あれは、絶対タッチダウンだった!」と言って亡くなっていったということを聞いたことがあります。

つまり、本人にとっては大事な試合で得点を入れた瞬間だったのに、審判からは別の判定がくだってしまったために、諦め切れないでいたということですね。

その試合から亡くなるまでにどれくらいの年月が経ったのかは知りませんが、いつまでも悔しい思いを捨てられずにいたということです。

それと比べたらはるかに小さな思い出なのですが、小学生のころに鬼ごっこをしていて、自分が鬼のときに必死になってある友達を追いかけた末に、背中にほんの少しだけ触れることができたのです。

その指先の感触を今でも覚えているくらいです。けれども、相手にはそれを伝えてもそれをまったく認めてもらえず、それ以外のどの友達からも同じ反応しかもらえなかったのです。

彼の背中の部分の服の一部に明確に手が触れたのですが、それは誰にも認めてもらえなかったというわけで、しばらくは悔しい気持ちが残っていたのを覚えています。

自分は間違ったことを主張しているわけではない、自分は絶対に正しいと思ったのですが、でも今思えば自分の正しさが大事だったのではなくて、聞き入れてもらえなかったことが悔しかったのだろうと分かります。

人は、正しかろうと正しくなかろうと、そんなことよりも自分のことを受け入れて欲しいという思いが強いということです。

それなら、そのことをしっかり認めてしまえばいいのです。そこをあやふやにしておいて、自分の正しさばかりを前面に押し出していても、不満はつのるばかりになってしまうでしょうね。

自分の正しさなんて

このブログにも以前書いたことがあるのですが、ある女性が入院している病棟でそれはひどい理不尽な待遇を受け続けるという映画を観たことがありました。

看護士も医者も堂々と意地悪をして、不必要な注射は打ってくるし、とにかくこんな病院からは一刻も早く抜け出したい一心で、見舞いにやってくる父親に必死でそのことを話すのですが、一向に伝わらない。

観てるこちらもイライラしてしまうのですが、そのうち何かのきっかけから急に周りの人たちが親切になったと思ったら、見舞いに来ていたのは父親ではなくて彼女のご主人だったとわかるのです。

つまり、そこは精神病院の病棟だったわけで、彼女の「攻撃されてる」妄想がそのまま映像になっている映画だったというわけです。

彼女の目には、本当にひどいことをされているように映っていたのですから、彼女の反応も当然のものだったのです。

昨日観た映画でも似たようなことが描かれていました。長いこと孤独だったある老人がいて、彼は隣に引っ越してきた婦人に好意を寄せられ、二人は急激に親しくなるという内容です。

彼は彼女のことを大好きになるのですが、突然連絡が取れなくなったりしてひどく気持ちを荒げてしまうのですが、実はその女性は長年連れ添った奥さんだったのです。

働いているスーパーの若いちょっと生意気そうな経営者も、実は彼の息子で、家族みんなで彼の病気を心配していたのです。

人は誰でも自分の理性を信じて生きています。自分は、物事を正常に判断できる正しさを備えているとして生活しているのです。

それが自分のワールドですね。その正しさを過信してしまうと、自分のワールドの外にも世界があるということが分からなくなってしまうのです。

正しさには意味がありません。正しさは正しくない人が周りにいて、初めて自己防衛のために役立つものだからです。そんなものにしがみついていては、相手やこの世界をあるがままに見ることができなくなってしまいます。

正しさに価値を見出さなくて済むようになれば、それだけ心は平安になるでしょうね。なぜなら、自分の周りに正しくない人がいなくなるのですから。

自分へ伝えたいこと

幼稚園に入った頃の自分へ伝えたいこと:

あれほど何でも言うことを聞いてくれていた母親が、突然君の願いを受け入れずに幼稚園に行かそうとしてきたのには、ホント参ったし悲しかったね。

でも君は膝が痛くて歩けない病気になって、長い間幼稚園に行かずに済んだじゃない。膝のことは心配いらないよ、半年もすると元気になって、幼稚園も好きになるのだから。

小学生の頃の自分へ伝えたいこと:

気がついたら君は、正義の味方のような男の子になってたね。あれはちょいと辛かったよな。夜一人で反省会するんだったしね。

でも大丈夫だよ、5年生くらいから徐々に要領よくなって、適当に人生を楽しめるようにもなるから。それと、中学生になったら勉強しなくても成績よくなるぜ~。

社会人になった自分へ伝えたいこと:

今いる会社にずっといるわけじゃないから安心して。それとね、これは超極秘事項だけど、意外に早く会社員生活は終わりを迎えることになるよ。

そして、君は一人で好きな仕事をするようにもなる。そのときにね、概ね欲しいと思っていたものや体験が手に入ってしまうから、驚くなよ!

10年後の自分へ伝えたいこと:

過去の自分のことを思い出すと、それなりに懐かしいのだけれど、最近過去も未来もものすごく遠くに薄ボンヤリとあるような気がして…。

だから、君にとったら今の自分なんかもっともっと希薄な記憶の断片になってしまうんだろうね。それとね、10年後の君が今の自分と少しも変わってないということも知ってるよ。

なぜなら、自分は生まれてから一度も変わったことなどないのだから。いつもこの自分がいて、1ミリも変わらないし、変わるようなナニモノもないのだから。

思考中毒から抜け出すには

思考を見るというただそれだけで、心の騒がしさが一瞬にして静まるという事実を、時々みなさんにお伝えしています。

「心が騒がしくなってしまったら、自分の心の中にどんな思考があるのかを見てください。」といつものように説明したら、あるクライアントさんに「思考って何ですか?」と聞かれてしまいました。

そう聞かれて、一体思考って何なのだろうか?と問い詰めていくと、何だか分からないという結果になるのも事実です。

思考が何かを説明できないとしても、思考は一種麻薬のようなものだと言えるかもしれません。一度その魅力にとり付かれてしまうと、なかなかそこから抜け出すことが難しいからです。

一度麻薬に手を出してしまったら、いざやめようと思ってもやめられなくなってしまうということは、誰もが知っていることですね。

思考も同じかもしれません。思考の中でも特異なものである、自己と身体を同一視するという思考を一度作ってしまうと、気がついたときにはもうそこから抜け出せなくなってしまっているのです。

そればかりではありません。その同一視した思考は、次から次へと別の思考を作り出すものですから、思考そのものを止めるということすら難しくなるのです。

そうやって、子供から大人になるにしたがって、もうにっちもさっちもいかない、完全なる薬物中毒のような思考中毒状態になってしまうのです。

この思考中毒状態は、ほとんどが自己破壊的な防衛のために費やされるのですから、多くの先達が何とかして思考を止めようと四苦八苦してきた歴史があるのも頷けます。

でも本当に簡単なのです。ただ、一瞬立ち止まって、いったいどんな思考が今あるんだろうかと見ようとするだけで、思考は静かになってくれます。

嘘だと思ったら、試してみてください。そして、それを日々実践することができたら、煩わしい心の状態から短時間に抜け出すことができるようになります。

セラピーは気づきへのほんの入り口に過ぎない

いつか、それもそれほど遠くない将来に、もしかしたらセラピーをやめてしまうかもしれないという予感がします。

セラピストを生業としてやってきている立場で、こんなことを書くのは本当にどうかと思うのですが、何度も言うようにセラピー(心理療法)で人が本質的に変わることはないからです。

何の効果もないということでは決してないのですが、いたずらに最も大切なことに気づくチャンスを奪ってしまう可能性もあるのです。

癒しの初期の段階が、精神的自己防衛の中で始まるのは仕方のないことですし、それは悪いことでもありません。

自分のここが改善された、この困った症状が緩和されたといっては喜ぶのですが、それが次はもっとここをよくしたいという具合に、果てしなく続くのです。

なぜそうなるかといえば、それを続けることこそが自己防衛システムの目的だからです。そのことにどこかの時点で明確に気づかなければなりません。

一度体験した喜ばしい過去を思い出しては、それを次も繰り返そうとするのですが、それこそが物語のど真ん中を突き進むことになるのです。

そのことが問題なのではなくて、それだけで人生を終えてしまうのは勿体無いと感じるのです。生きている間に、自分の本質に気づくこと。

それに気づきつつ、同時に人生という物語を楽しむことこそが、奥行きのある毎日の過ごし方になるのではないかと思うのです。

セラピーは、そのほんの初期の入り口の役割しか果たすことはできません。お会いすることのできた多くのみなさんと、このことを分かち合いたいと思っています。

コントロールを手放す

自我が発生すると、すぐにここには自分がいて、その自分は周りにいる親や大人たちに支配されているということを悟ることになります。

支配されるということは、相手の意のままにコントロールされるということです。そのコントロールが、自分が望むことと違えば違うほど苦しむことになるのです。

可能性はゼロに近いですが、もしもコントロールが自分の好み通りであったなら、わざわざ自分が努力してコントロール権を勝ち取ろうとする必要はありません。

実際には、自分の思ったとおりのコントロールなどというのは決してないのですから、子供はどうにかしてコントロールを勝ち取ろうと努力することになるのです。

自分がコントロールしたい、コントロールできるはず、コントロールできたらいいのに、そういう強烈な願望を持って毎日を生き延びようとするのです。

それがある程度成功することもあるでしょうし、その一方でそううまくことが運ぶわけではないということも知るようになるのです。

それでも成功事例があることで、それをもう一度実現しようとして奮闘努力するのですが、それが本人を苦しめる結果となるのです。

この、できるだけ多くのコントロールを握っていたいという願望は、大人になっても色濃く残ることになるのです。それは、力を抜いて起きたことに委ねるという生き方とは正反対なものです。

いきなり、「すべては神の思し召し」というところに行けないとしても、少なくともコントロールを手放す気などないということに気づくことです。まずはそれを受け止めることです。

コントロールこそが、これまであなたを支えてきたとされる自己防衛システムの中枢にあるからです。残念ながら、コントロールしようとすればするほどあなたは傷つくことになってしまいます。

したがって最も大切なことは、究極的には自分には一切のコントロール能力など初めからないのだということに気づくことです。それが明け渡すという無防備な心の状態へとあなたを連れて行ってくれるのです。

物語の外に在る自己の本質に気づく

私たちの人生という物語は、問題を見つけてはそれを解決するということの繰り返しによって成り立っているのです。

私たちは、あらゆる不平不満を抱きながらも、こうした「問題→解決」という永久ループから一向に抜け出したいとは思わないでいるのです。

それがなければ、物語は成立しません。でも、その繰り返しにホトホト疲れてしまったというのでしたら、本当はその物語の中に自分はいないということに気づくことです。

物語というのは、思考の中にしか存在しません。勿論、その物語の主人公としての自分という存在も、同様にしてその思考の中だけに生きているのです。

一時的にでも、その思考から抜け出すことができたなら、そこには当然のようにしてここにいると信じていた自分はいないということに気づくことになります。

自分に対して、そのように物語の中にはいないという体験を何度もさせてあげることです。そうやって、ナニモノでもない自己への注意を通して、無防備に物語を見ることができるようになるのです。

問題を解決するという自己防衛のシステムを見限って、それが物語りを永続させているということを悟って、物語の外に在る自己の本質に気づくこと。

それは何物にも代えがたい、真に落ち着いた心の状態へと連れて行ってくれるのです。やることは簡単、時々思考を見、自分とは?という問いを繰り返すだけ。

そうした心の行為が、過去と未来を往復する思考をストップさせて、注意を今に固定してくれるのです。試す価値はあると思いますよ。

被害者で居続けたいという思いに気づく

人は誰でも、幼いころになんらかの理由により、傷つけられた、被害に遭ったという思いを持っているものです。

その気持ちや感情をしっかりと受け止めて、感情を味わって開放するために催眠療法などによって過去に戻るのです。

どんな人でも、子供のときの惨めな思いや情けない自己嫌悪、そしてひどい目に遭ったという被害者としての立場を強く残しているのです。

そのことをしっかりと思い出してあげて、ありのままの感情を真正面から引き受けてあげることで、その当時の子供の意識は救われるのです。

けれども、大人の自分がいつまでも被害者の意識を引きずってしまうと、どれほど催眠療法で感情を見に行ったとしても、癒しには繋がらないのです。

癒しの大切な要点として、どこかの時点で自分は被害者ではなかったという事実に気づく必要があるのです。

自分も被害者ではないのと同様に、周りの大人たちも加害者ではなかったということにしっかりと気づくことがとても大切なのです。

いつまでも誰かのせいにしておきたい、自分は決して悪くない、このような気持ちが強く残っている限りは、被害者の立場を失いたくないと思っているのです。

そのことに気づいて、所詮悪者はどこにもいないということがはっきりすれば、そこでようやく大きな癒しがやってきてくれるのです。