「鬱」は心のストライキ その2

昨日の続きです。

鬱状態というのは、心のストライキが起きている状態であるということをお伝えしました。一体何が何に対してストライキ、つまり実力行使をしているのかに気づくことが大切だということをお話ししました。

その部分について今日はお話ししたいと思います。心のストライキという場合の心とは、自分の心のことですね。誰かの心を意味しているはずもありません。

そうなってくると、何かが何かに対してストライキという場合、そのストライキを起こす側も、起こされる側もどちらも自分の心の中にあるということになります。

つまり、どちらも大切な自分の気持ち、本音であるということです。そして、結論からいってしまえば、長い間抑圧されてひどい目に遭わされて来た純粋な自分が、自分を何とかして守ろうとする自分に対してストライキを起こしていたのです。

ストライキを起こしているのは、自分の防衛本能であるともいえます。そして、ストライキを起こされているほうは、心理的自己防衛であるともいえるのです。

どのように表現しようが、とにかくストライキを起こされているほうがそれまでの自分を主にコントロールしてきたことは確かなのです。

それ自身はやり過ぎていたことに気づかずにきてしまい、多大な自己犠牲を作り上げてしまったせいで、身の危険を察知した防衛本能が発動したということですね。

したがって、鬱の状態になったときこそが、それまでの偏った自分の生き方を根本から見直す最大のチャンスなのです。

そのことに気づけた人は、とてもラッキーだと言えるでしょうね。ではどうやって、鬱状態を起こしてしまった人生の生き方から脱出することができるのかということについて、明日また書きます。

つづく

「鬱」は心のストライキ

ここ日本において、最近では五人に一人は「鬱」の傾向があるといわれていますね。それほどまでに一般的になった「鬱」なのに、その原因を必ずしも深く理解していないのはおかしなことだとは思いませんか?

いわゆる「鬱」の代表的な症状というのは、みなさんもご存知かもしれませんが概ね以下にあげるようなものだと言っていいでしょう。

-不安、悲しみ、自己否定感、焦りなどのネガティブな感情がやってくる。特徴的なのは、そうした感情がやってくる原因が思い当たらない。

-やる気がでない。虚無感とか、空しさのような感覚に苛まれる。怠け心とは違って、気持ちはやらねばと思うのだけれど、身体がいうことをきいてくれない。

-頭が回転しない。仕事の能率が落ちてきたり、記憶力や理解力の低下を感じる。

その他にもいろいろありますが、夕方くらいから少し元気を回復するなどの特徴を持っていたりすることもあります。

私は、「鬱」または「鬱症状」のことを「心のストライキ」と呼んでいます。ストライキというのは、言うことを聞いてくれない相手に対する実力行使のことです。

一体、何が何に対して実力行使をしているのかを見極めることができれば、鬱を恐れることはありません。恐れるどころか、大切な大切なことへの気づきを促してくれる貴重な心の状態なのです。

つづく

気分の浮き沈み

人は誰でも、何か嬉しいことがあれば機嫌が良くなるし、嫌なことが起きれば機嫌がわるくなるものですね。それは当然のことです。

私などは、一日のうちで何度も機嫌が上がったり下がったりを繰り返していると思います。上下の幅はそれほどではないにしても。

それでも、何か明確な理由が分かっている時には、自分てなんて単純な奴なんだろうと思うだけで済みますが、どうも理由がはっきりしないばあいもあります。

気分が良くなったり悪くなったりが何の予兆もなしに、突然やってくるという経験をみなさんはしたことがありますか?

きっと多くの人があるはずです。朝起きただけで気分が悪いとか、外は猛暑なのに、何だかふと機嫌がよくなったとか。

自分の気持ちに意識を常に向けつづけていると、どうやらこうしたはっきりした理由もなしに気分の変化がやってくることの方が多いことに気づかされます。

これは、自分の心というものが過去に生きているからに違いありません。表面意識では、今を体験しているという自覚があるものの、誰の深層においても過去を見ているのです。

そのために、自分の心がその瞬間本当は何に対して反応しているのかに、まったく気づくことができないのです。

わたしたちの心の中には、無数の過去の体験からやってくる無数の想いや感情が蓄積されて、それがふとしたときに表面に上がってくることがあり、それによって気分の上下を感じているのです。

せっかく奥の方からやってきた大切な自分の気持ちですから、それを気のせいなどと言わずに、しっかりと感じ切ってあげることです。

そうした実践を続けることで、ますます気づいて欲しい自分の本音が上がってきてくれるようになり、いずれは自然と気分の上下の少ないどっしりとした落ち着きを得るようになるはずです。

植物の名前

先日、クルマに乗ろうとして駐車場の敷地内を歩いていたら、近所のお母さんと小さな息子さんが仲良く歩いていたのです。

お母さんがお子さんに向かって、「この木なんていう木か知ってる?」と質問していたのです。派手なピンクがかった色の花が沢山咲いている木でした。

自分もその木の名前を知らなかったので、そのお母さんの答えを聞きたかったのですが、そうこうしている間にクルマのところに来てしまったので、結局正解を聞きそびれてしまいました。

たまに、植物の名前をほとんど知らない自分が、如何にしたら名前を覚えられるだろうかと考えていたので、そのことがまた自分の中で再燃したのです。

せっかくネットが普及したこの時代なんだから、スマホで情報を送ったら名前を教えてくれるアプリでもあればいいのにと思っていたのですが、探したらあっけなく見つかりました。

誰も考えることは同じなのですね。それで、さっそく写真を撮って転送したところ、そのアプリから答えが送られてきました。その木の名前は、「サルスベリ」でした。

確かに、木の皮の部分を良く見てみると、例のつるつるした感じがしていて、子供のころには見たことがあったことを思い出しました。

夏真っ盛りのこの時期に立派な花を咲かせる木だったのですね。もしかしたら、自分が通っていた小学校や中学校にもあったのかもしれませんが、夏休みだったせいで花の記憶が無かったのかなと。

一度名前を覚えてしまうと、サルスベリの木がいたるところにあった事実に気づかされて、驚かされました。自宅から事務所までの道中、クルマの中から何本も見つけました。

名前を知るという威力ですね。あらゆる物や人の名前を覚えるのが苦手な自分は、随分と損をしてきたのかもしれないと思ったのです。

それでも、あらゆるものにつけられた名前を一旦脇において、ただあるがままを見るという視点もなかなか清々しいものですよね。

雄弁は銀、沈黙は金

「雄弁は銀、沈黙は金」ということわざがありますね。俗っぽい解釈をすれば、ああだこうだと弁舌を振るうよりも、ただ黙っていたほうがいいときもあるというくらいでしょうか?

もっと深い解釈をするなら、言葉というのは確かに人類が発明した偉大なものですが、もっと偉大なのは沈黙だという意味です。

人間は言葉を編み出したおかげで、より複雑で高度な思考を使えるようになったことは間違いないことですね。

勿論、言葉を使わなくても思考することはできます。けれども、私たちは気づいていようがいまいが、いつも言葉を使って物事を考えるクセがついてしまっているのです。

つまり、「思考=言葉」といっても過言ではないくらいになってしまっているということです。ということは、沈黙というのは思考の無い状態のことを指すのです。

したがって、このことわざにおいては、頭で考えていながら、言葉に出さないような沈黙のことを言っているのではありません。

「沈黙」とは、思考の外に出るということを意味しているのです。それが金であるということは、それこそが真理であるということ。

思考は便利なツールではあるのですが、だからといって思考を過大評価してはならないのです。思考は、万能でもなければ本質的などんな力も持ち合わせていないからです。

思考は、真理からやってくる一つの現象に過ぎないのですから、思考によって真理を探究しようとすることくらい、お笑いでしかないことはありませんね。

人生は大掛かりなドッキリカメラ

純粋な意識である私たちの本質が、私たちの中でそれ自身に気づくこと、それこそが覚醒と呼ばれるものです。

けれども、私たちのエゴはそんなことまでも抜かりなく自分の手柄のようにしてしまうのです。エゴが覚醒することなど、元々原理的にあり得ないことなのに…。

エゴはどこまでいってもエゴなのです。そんなエゴですが、そのエゴが理解できる最上級のことがあります。それは、自分はいないということです。

エゴは思考によって、自分がここにいるということをでっち上げ続けるのですが、その思考をどこまでも追求していくことで、思考の根元を捕まえることができます。

そのとき、思考は思考でしかなくて、それ以外の何物でもなかったと気づくのです。それは、なかなか小気味いいものかもしれません。

あるいは、大掛かりなドッキリカメラか何かに嵌められていて、そのことに気づいた瞬間に似ているような大笑い状態になる人もいるかもしれません。

お~い!何だそうだったのかあと…。ふざけた話しだし、こんな意地悪で緻密な仕掛けのドッキリなんて、そう簡単には気づくことできないはずだよ、と。

半ば呆れ、半ば笑い、半ば脱力し、そして最後にはどこまでも静まり返った静寂に包まれることになるのです。

そうなったら、もう自分が覚醒した人物ですなどと、したり顔になどなれるはずもありません。それでも、肉体がある限りはこの人生は続いていくのですけどね。

エゴの癒しと本質の癒し

昨日のブログでは、心の癒しが進んでいく過程においては、心理的自己防衛が少しずつ小さくなっていくというお話しをしました。

私たちの苦しみの原因とは、自分を何とかして守りたいという強い欲求、つまり心理的自己防衛にあるのです。

そうした自己防衛には必ず、自己犠牲が付いてまわるからです。自分を守って、一過性の安心を得ようとするために、無邪気な自分の欲求を抑えてしまうのです。

幼いころに作り上げてしまったその自己防衛の影響下にいつまでもあり続けると、その人の人生はボロボロに破壊されてしまいます。

無邪気な自分と、自己防衛しようとする自分とのバランスが崩れてしまうと、いつかは鬱的な状態がやってくることにもなるのです。

自己防衛を小さくしていくことで、そうしたアンバランスを減らしていくだけで人生はがらっと様相が変化してきます。

さて、ここまでは昨日の補足のようになってしまいましたが、一方でこうした癒しが進んでいくという見方とはまったく異なる大切な視点があります。

それは、癒しを進めていく自分はエゴそのものだという見方です。そしてそれは、実際にそうに違いありません。

なぜなら、それは結局自分という個人をもっと何とかしてよりよくしていきたいという思いだからです。今の自分に満足しないというのがエゴの本性です。

このエゴの癒しとは本質的に異なる癒し、それは私たちの本質を見抜くという方法であり、それは進歩するという類のものではありません。

個人としての自分が癒しのどのステージにあろうとも、そんなことには一切関係なく自己の本質には気づけるからです。

どちらの癒しもとても大切ですので、どちらか一方だけに過度にはまり込むことのないようにできると、理想的ですね。

癒しの各ステージ

心の癒しを進めていくと、その人ごとに様々な内的変化が起こってきたり、実際にその人の周辺で起こることにも変化が現れてきたりします。

けれども、癒しの過程において誰にとってもまったく同様にやってくることがあります。それは、心理的自己防衛が少なくなっていくということ。

私は物事をシンプルに扱うことが大好きなので、敢えてこういう言い方になるのかもしれませんが、要所をつかむとすれば結局そういうことなのです。

最も癒しが進んでいない状態とは、激しい自己防衛の操り人形のようにして生きている場合です。本人には、その苦悩から逃げ出すための出口がないように感じてしまいます。

なぜなら、自己防衛をし続けることを前提として、どうしたら苦しみから抜け出すことができるだろうかと考えてしまうので、それは当然出口など見つかるはずがないのです。

そのステージにいる人の特徴は、比較的いい人と思われていたり、自己表現がひどく苦手だったり、自分を優先することができないといったことがあげられます。

癒しの次の段階へ進むと、それまで続けていた自己防衛のうちの何割かをやめていくようになります。それだけ人生での縛りが解けていくわけですから、その分本人は楽になります。

その状態の人は、いい人を返上して、いわゆる立派なエゴの人を実践していけるようになり、したがって、自分を優先することが徐々にできるようにもなっていきます。

もちろん、これが癒しの最終形ではありません。より自己防衛が減っていくと、今度は心的自己犠牲のない状態での他人を優先するという生き方になっていきます。

自己防衛というエゴが更に減るのですから、文字通り過去や未来にとらわれない生き方、自分の思考や感情を受け止めることで、それらに巻き込まれないようにもなるはずです。

自己防衛に巻き込まれずに、つまり無防備になっていけばいくほど、その人のエネルギーは軽くなり、深刻さは微塵もなくなってしまうでしょうね。

こうは思われたくないというあなたの気持ち

私たちは誰だって、人から否定されることを恐れています。恐れているというとオーバーに聞こえるのでしたら、否定されたくないと思っていると言ってもいいです。

ちゃんとしなければいけない、誰からも後ろ指さされたくない、親切でしっかりした人と思われたい、人格者と言われたい、こうした気持ちを持っていないといったらウソになるはずです。

そして常に、他人からどのように見られているのかを、気にしながら生活しているのです。誰だって嫌われるより好かれたいのですから、これは当然のことです。

あなたは実際、周囲の人たちから○○とは思われたくないというのをどれだけ持っていますか?勇気を持ってリストアップしてみてください。

沢山見つかるかもしれませんし、ほんの少しだけかもしれません。いずれにしても、○○のように見られるのだけはいやだというのが見つかったとします。

その気持ちがどこから来るかというと、自分が「自分のことを○○であるとは思いたくない」、という強い気持ちを持っていることからやってくる、つまりそれが原因なのです。

そしてそれは、「自分のことを○○であるかもしれない」として恐れてもいるのです。更には、心の一番奥には、「自分は○○に違いない、そんな自分は駄目だ」を持っているのです。

こうした強烈な自己否定感をまっすぐに見て、あるがままを受け止めることです。そして、そういう気持ちを一切裁かずにありのままにOKを出してあげるのです。

そうすると、自分のことを○○だと思われるのは絶対にいやだ、という気持ちが薄らいでいきます。その結果、他人からそのように思われてしまうという現実も消えていくのです。

シュレディンガーの猫

量子力学における確率の解釈というのは、私たちが通常イメージする確率とは大きく異なるものです。

「シュレディンガーの猫」という架空の実験があるのですが、箱の中に放射性物質と生きた猫を入れて、その放射性物質がアルファ崩壊した分だけ猫が死ぬというしかけを作っておくのです。

そして、その放射性物質が一時間の間にアルファ崩壊する確率が50%だとすると、猫は一時間後に50%の確率で生きており、また50%の確率で死んでいるというものです。

私たちの思考によると、蓋を開けずとも猫は生きているか死んでいるかのどちらかの状態に違いないと結論付けてしまいます。

けれども、量子力学によると、蓋を開けて観測するまでは生きている状態と死んでいる状態が同時に50%の確率で起きているとするのです。

言い換えれば、その一匹の猫ちゃんは生きているか死んでいるか不定だということです。猫でなくても、たとえそれが人間であっても同じなのです。

そして、一度蓋を開けて箱の中がどうなっているかを観測する瞬間に、生きているか死んでいるかどちらかの状態へと収束するのです。

それと同様にして、私たちはこの地球上で70億分の1の確率で同時に存在していると捉えることもできます。

そしてその上で、実際に知覚をもって観察される瞬間に、70億分の1の確率でどれかの肉体とリンクした誰かになるということです。

それが、たまたまあなたであり、私でもあるのですね。