人生とは思考によってひねり出された物語

先日あるテレビ番組で聞きかじっただけなので、詳細は定かではないのですが、クロシジミチョウは幼虫のときに、女王アリが出す音をマネしてアリの巣の中で、アリに育ててもらうらしいです。

アリはその音にまんまと騙されてしまい、女王アリだと思ってせっせと栄養になるものを運んで来てくれるわけですね。

また、カッコウやホトトギスは、托卵(たくらん)と言って、違う種類の鳥の巣に自分の卵を産み落とし、そこで我が子を育ててもらうという習性があります。

産み落とすタイミングも絶妙で、託す側の鳥が卵を産む時期を見ているらしいのです。早すぎると、親鳥に見つかって卵は殺されてしまいます。

また、遅すぎると親鳥が生んだ卵が先に孵ってしまうため、これもまた育たないのです。カッコウの卵であることが親鳥にばれずに、かついち早く卵が孵化して、他の卵を下に蹴落とすことで、自分だけが上手に生き残るというわけです。

こうした話しを聞いていると、何だかとてもずる賢いというか、あまりにもやり方が姑息過ぎて、もっとまっとうな育て方があるだろうと言いたくなりませんか?

けれども、当たり前のことですが、クロシジミチョウにしてもカッコウにしても、彼らには自我というものがありません。

したがって、彼らのやり方が如何に不正を働いているように見えたとしても、それは単なる動物としての防衛本能の働きでしかありません。

私たち人間だけが、本当は「ただ起きていること」を思考によって裁いて、そこに正不正や善悪のレッテルを貼って見ることで、興味深い物語を作り出すのですね。

私たちの人生というものも、そうやって思考によりひねり出された物語であるということを、いつも忘れずにいられると深刻になることから開放されるはずです。

真の暑気払い?

しかし、暑いですね~。個人的には、今頃の夏の暑さが好きだとはいえ、この時間(夜11時過ぎ)になっても一向に涼しくならないのには、閉口してしまいます。

夕べは、明け方に何度も目が覚めてしまい、その度にエアコンをタイマーにして寝るのですが、タイマーが切れるとまた起きてしまうというのを繰り返していました。

誰かにお会いしたときの第一声が、「いや~暑いですね~」なのです。そう言ったところで暑さが紛れるわけでもないのですが、つい愚痴りたくなるのですね。

以前、スポーツクラブで会うあるご高齢の婦人が、夏の暑い日に「今日は涼しいねえ」と言ってきたので、ポカンとしていたら、暑いというと暑くなるので、涼しいと言うようにしているというのです。

確かに、暑さを敵対視したうえで、恨みがましく暑い暑い!と言えば、余計に暑くなるというのは間違いではありません。

けれども、実際には暑いのに涼しいというのは、どうかと思ったのでそのときには黙っていました。本当は、そうしたやせ我慢は私の場合ほとんどしません。

なぜなら、それは厳密にいえば自分の本音を隠すことになる、つまり自分を騙すことになってしまうと思うからです。

実際には、一時的には効果があるかもしれませんが、それは暑がっている自分の心を葬り去るようなマネをしているということに気づかねばなりません。

本当に暑さに対する苦しさを小さくしたいのなら、「暑い、暑い」をしばらく繰り返して言うことです。2~3分も繰り返していると、暑さは変わらないのですが、拒絶感が小さくなったのに気づくはずです。

私たちの苦しみは、拒絶感と密接に関連しているのです。拒絶は恐怖からやってきます。その感情をしっかり受け止めることによって、その分だけ心は穏やかになります。

ウソだと思ったら、騙されたと思って試してみてください。暑気払いというよりは、暑さへの拒絶払いといったところですね。

真理の探究においては、矛盾を歓迎する

思考はいつも真理を理解することができる、努力すれば必ずや真実に到達することができるのだと信じています。

そうやって、飽くなき挑戦をし続けているのが人類ですね。様々な分野における研究、あるいは探求、挑戦は果てしなく続いていくのです。

それは決して悪いことではないし、悪いどころか価値ある人生を生きていくためにも、必要なことだというように思われているのも事実です。

科学にしても宗教にしても、昨日よりも明日はもっとすばらしいステージに立てるはず、そうした向上心が人類を進化させている、そうも思われているのです。

けれども、私たちは実はどこへも向かってはいないのです。思考のレベルで、どれほど改善、改革、自己実現などと叫んだところで、それは所詮思考の範疇なのです。

17年間も苦行を経験した仏陀が、悟ったときにその苦行は必要なかったと言ったように、私たちの思考が納得するような結果が必ずしもやってくるわけではありません。

「苦行はいらなかった」という彼の言葉は、相当に重く受け止めなければならないのです。思考で真理を捉えようとすると、そこには必ず深い矛盾の淵が待っているのです。

この世界は現実でもあるし、幻想でもある。本当は成すべきことは何もないが、努力が必要なときがないわけではない。

何も無いという「無」が厳然として「在る」、本当は分離など存在しないのに、分離からやってくる苦悩が私たちを苦しめている。

もしもあなたが、真理に近づこうとして矛盾にぶつかったなら、それはただ思考の限界を感じているだけだとして、軽やかにかわして行けばいいだけです。

矛盾をそのままに受け入れること、それが思考の限界を越える唯一の方法なのですから。

白いキャンパスとしての自己に気づく

原理的には、私たちの誰もが概ねまっさらな心の状態で生まれてきます。それは、まだ何も描かれていない真っ白なキャンパスのようなものですね。

真っ白だからこそ、はじめの数年間に描かれた絵、つまりその間に経験したことやそれにどのように反応したかがとても大きなインパクトとして残ることになるのです。

真っ白な心は、それこそ無防備な状態なので、どんなことでもそれを敏感なアンテナのように拾い上げて、強い影響を受け続けるのです。

その結果、その人のそれ以降の人生がどんなものになるのかといった大きな方向性が決まるのです。最初の数年間に赤色の土台を作った人は、赤色のビルディングを建てることになるのです。

幼児期の体験とその反応によって、赤色の土台を組み立てた人が青色のビルディングを建てるということはあり得ません。

幼いころに決意したことは石のように固く、よほどのことが無い限り大人になってもそれを覆すことはありません。

また、その頃に思い込んでしまったことは、単なる独りよがりなどと言うレベルでは済まされないくらいに、強烈に信じ込んでしまい、それはもうほとんど真実として本人の心の中にありつづけるのです。

その一つが、自分がここにいるという想いです。私たちの誰も、自分はここにはいない、などと思いながら過ごしているはずはないですね。

それは誰もが認める動かしがたい事実のようにみてしまっています。そして、それをベースとした必死の自己防衛がスタートするのです。

だからこそ、私たちの誰もが苦しみの原因として続けてきた自己防衛などは、それこそ筋金入りなのです。それを止めることは至難の技です。

けれども、どこまでもとことん自分に正直に向き合うということを徹底することで、次第に何重にも塗りたくられた絵の最下層に残っている真っ白なキャンパスを見つけることだって不可能ではないのです。

赤ちゃんの頃は、自分が真っ白なキャンパスであると気づくことはできませんでした。でも、一度塗りたくられた絵の具の層を丁寧に見つめていくことで、真っ白なキャンパスとしての自己に、今度は明確に気づくことができるのです。

人生の本当の目的があるとしたら、それを探し出すことではないでしょうか?

思考が二元性を生む

昨日の続きのような内容になりますが、この世界では表があれば常に裏があるのです。コインの表面が表でも裏でもない、ということはありませんね。

それと同じように、すべてが二つのうちのどちらかなのです。好きか嫌いか、右か左か、常識的に考えれば、右であると同時に左でもあるなどということはありません。

こうした世界の性質というのは、思考から発生したものであって、決して真実というわけではないのです。思考が活躍できるところは、二元性の世界に限られるのです。

真実は、ただ在るのですから、上か下かのどちらかということもありません。昨日のブログで書いた、否定しないということは、肯定でも否定でもないということ。

それが真実の方に向いている態度だということです。思考を脇に置くことが出来れば、それは当然の結果としてやってきてくれます。

そこには、何の力みもありませんし、何の正しさも、何の努力も必要ではありません。好きの反対は嫌いですが、そこに思考(防衛)がなければ、好きと好きではないがあるだけです。

私の中にずっとある幸福感を表現すれば、それは「不幸ではない」になります。嬉しいことがあって、飛び上がって喜んでいる姿とは異なる安定したものです。

それには、この「不幸ではない」ためのこの世的な理由などありません。だからこそ、永続的なものなのですね。真実とは、永遠のことなのですから。

「否定しない」の反対は「肯定する」ではない

いつもクライアントさんに伝えていることがあります。それは、簡単に言えば自分の心の中にあるどんな気持ちや、どんな想い、どんな感情に対してもそれをそのまま受け入れて欲しいということです。

ところが、この「受け入れる」というのがどうもピンと来ないと言われてしまうのです。「受け入れる」ことは、意外に難しいと感じてしまうのかもしれません。

それで、別の言葉を捜すのですが、例えば「否定しない」と言い換えることができると思って、そうお伝えすると今度は「肯定する」という意味で受け止められてしまうことがあるのです。

国語として、否定の反対は肯定ですので、「否定しない」= 「肯定する」のように捉えるのは当然なのですが、ここでの「否定しない」は、「肯定する」とは若干ニュアンスが異なるのです。

「肯定する」には、「積極的に」肯定するというニュアンスが含まれているのですが、「否定しない」にはそれがありません。

つまり、単に否定しないというだけで、力を込めて肯定する必要はないのです。もっと言えば、本当は積極的に肯定も否定もしないということ。

そのまま、だたあるがままを見るということなのです。一般的に、好きの反対は嫌いということになりますが、無防備な心においては好きの反対は単に好きではない、なのです。

なぜなら、「嫌い」には積極的に拒絶するというニュアンスがあり、それは心理的防衛がベースにあるからです。拒絶がなければ、ただ好きか好きではないがあるだけなのです。

「肯定する」に含まれる積極的にというニュアンスには、ともすると防衛の要素が見え隠れする場合があるように思うのです。

愛は無防備な心にやってくる

私たちは、自分を守る必要がないと分かっているとき、心の奥に隠し持っていた愛が表面に上がってきます。

無邪気な幼い子供を見ると、一般的にはとても可愛いなとか、愛らしいと感じることができるのは、その子供に攻撃されて傷つけられることはないと知っているからです。

力の弱い小動物や、おとなしい犬や猫を愛くるしいと感じるのも、まったく同じ原理が働いているからです。

自分の身の危険についてケアする必要がないと感じてさえいれば、普段隠れていた愛が一瞬にしてやってきてくれるおかげで、対象物に対する愛を感じるのです。

このことは、理性ではそう簡単に変えることができません。たとえば、幼い頃から周りにいる親などの大人たちが、ゴキブリを怖がっている姿を見せつけられていたとします。

つまり、親が必死になって防衛している姿を見ていると、ゴキブリには傷つけられる恐れがあるのだと判断してしまうのです。

そうなると、どれほどそれが小さな動物であろうとも、身近にそれがやってきたときに防衛システムが働きだすので、愛しいとは感じられないのです。

私たちの本質である純粋な意識に注意を向けていると、それが傷つくなどと言うことは決してないということが分かるために、自然と自己防衛が小さくなります。

その結果、あなたの心に待機していた愛が発動するようになり、自分のことも周りの人やあらゆるものに愛しさを感じるようになるのです。

愛は必ず無防備な心の状態において、静かにやってきてくれるのです。決して、理性や努力でコントロールできるものではないのですね。

あなたに境界はありますか?

私たちの誰もが、2~3歳のころから自分と身体を同一視するようになってしまいます。そのおかげで、自分は「個」であるという信念を作り出します。

けれども、その信念を一旦脇に置いて、今一度自分に境界があるかどうかを見てください。私にはどうやっても境界らしきものが見えません。

きっとあなたにも同じことが言えるはずです。誰にも、自分とはここまでだという境界などないことは明々白々です。

そして境界がないということは、自分というものは「ない(無限小)」か、あるいは「全体(無限大)」であるという結論にならざるをえません。

昨日のブログで書いた全体性とはこのことです。自分という意識、あるいは思考に注意を向け続けていると、どうしてもそこへ到達してしまうのです。

「自分の頭の中にある思考」という表現を普通にしますが、これほどおかしなことはありません。思考そのものには、境界がないのですから。

境界のないものが、頭の中などという狭い空間に閉じ込められているはずはありません。私たちは本来、全体性でありながらその思考の中で「個」であると信じて生きているのです。

これほど不思議で不条理なことはないと思いませんか?大海原が、海面に無数に起きては消えていく波の一つと自分を同一視して、自分は波だと言い張っているのと同じです。

あなたに境界がないということを、もしかしたら否定したい気持ちがやってくるかもしれませんが、そんなものはそのままにしておいてください。

どんな気持ちになろうと、あなたに境界がないことは明らかなのですから。あなたの本質は波ではなくて海そのものだと認めると楽になりますよ。

私の中で本質が顔を覗かせてる

私たちの誰もが、今自分がここにいるということを知っています。けれども、それが単なる思考であるということに気づいている人は少ないかもしれません。

単に思考の中身として、そうした解説をしているということと、それが事実だということとの間には無限のひらきがあります。つまり、まったく違うことなのです。

私の場合ですが、自分がここにいるという感覚をそのままにして、そうした感覚を持っているこの自分とは?というのを突き詰めてみたところ、いきなりそれが広がったのです。

自分は実はここにいるのではなくて全体だったという、どうやっても抵抗することのできない感覚がやってきたということですね。

それは勿論いやな感覚ではなく、なおかつ全くそれまで知らなかったわけでもなかったと思ったのです。つまり、どこかでいつも感じていたんだと…。

この感覚は絶対に誰でも持っているものに違いないということも感じました。そして、全体性というのは無二のものなので、すべての人の本質は唯一だと気づいたのです。

更に言えば、これは私という個人が気づいたというよりも、その本質そのものがそれ自体に気づいたということに違いありません。

なぜなら、個人としての私には無限とか全体性を本当には理解する力がないからです。一人称としての自己が「在る」という気づき、これは人間のものではありません。

一般には、人間としての自我がその気づきを邪魔してしまうのですが、その間隙をぬって本質がほんの少しだけ顔を覗かせているんだろうなと思うのです。

私たちは誰も覚醒できない

厳密な言い方をしてしまうと、私たちの誰も覚醒することはできません。どれほどの難行苦行を行い、崇高な精神を持つようになったとしても、それを行っている本人が覚醒することはないのです。

以前奇跡のコースを読み始めたときには、私自身がこの教えに従って根気強く自分を改善していけば、いずれは神の子に戻る、つまり覚醒することができると思っていました。

けれども、それは違うということに気づいたのです。歴史上誰もが知っているイエスキリスト、あるいは仏陀(釈迦)といった聖人についてはどうなのでしょうか?

実は、一人の人物としての彼らにしても、彼ら自身が覚醒したわけではなかったのです。個人という自我は、どれほど鍛え上げたとしても覚醒するわけにはいかないのです。

個人という人物の中で、私たちの本質自体がそれ自身に気づいたとき、それが覚醒ということになるのです。

このことを残念なこととして受け止めるのか、それともかえってスッキリ爽やかな気持ちで受け止めるのか、人によって様々かもしれませんね。

私は、とてもスッキリしたのです。なぜなら、もう自己改造プログラムに興味が失せてしまったからです。観念したというのか、とにかく個人という自我はどこまでいったって自我のままだと分かったのです。

そして、更に嬉しいことに自我のままでいながらにして、同時にこの人生のすべてを貫通して常に在り続けている本質にも気づいていられると分かったのです。

このことについてだけは、本当に誰にも平等に与えられているのです。それこそが本当の救いですね。