独りである、ということ

人は独りで生まれてきて、また最後には独りで死んでいくのですが、その間の人生では多くの人々との関係の上に人生を生きて行くわけです。

けれども、その人生の中でも、本当の自分はやはり独りなのです。どう考えても独りではないとは言えません。自分以外のすべての人は自分ではなく、他人だからですね。

ところが、エゴは誰かとの関係性の中においてのみ、その存在を確固なものとすることができるので、自分が独りだと感じると危機感を覚えるのです。

そうして、すぐにテレビを見たり本を読んだり、誰かと連絡を取ったりするのです。何とかして、気を紛らすことで本来の自分は独りだということを忘れようとするのです。

このままだと、あなたは自分は独りであるということを思い出すこともできずに、エゴにコントロールされた人生を生き続けることになるのです。

社会とはそういう場所なのです。この生き方を続ける限り、あなたの本質が何なのかを知らずに最期を迎えることになってしまいます。

だからもしもできるなら、私は独りになってみたいのです。すべての関係が遮断されたなら、私はきっと孤独の中へと投げ込まれてしまうはずです。それはエゴにとっては、大変な恐怖であり、苦痛なはずです。

独り言が始まるかもしれません。あるいは、植物や自然などを相手に会話をするようになるかもしれません。それもやめて、沈黙することができたなら、エゴは衰弱の一途をたどることになるでしょうね。

社会によって作られた数々の私という仮面、他人によって作られた私という人格、そういった私という人物のすべてが徐々に剥ぎ取られていくのです。

そうして、私は次第に誰でもない、形容することのできないものである本当の自己へと近づいていくのです。完全なる独りとは、個でもなくなるのです。個とは社会があっての個別性だからです。

独りに戻れば、私は全体性へと復活することになるのです。そうなって、初めて社会の中に戻っても、社会に触れずに生きて行けるようになるのでしょうね。