身体や思考との同化

私たちの苦しみのすべては、同化によって起きてくるのです。その同化にも二種類のものがあって、一つは身体との同化であり、もう一つはマインド(思考)との同化です。

生まれたばかりの赤ちゃんは、在るがままでまだ何とも同化などしていません。だからこそ、自分という個がない状態で生きているのです。

ところが、2~3年経つうちに、周囲からの連続的な刺激によって、まず身体との同化が始まり出すのです。つまり、自分とはこの身体に違いないという思い込みです。

そしてまもなく、更に自分とマインド(思考)を同化させていくことになるのです。ここにきて、当然のことながら「私」というものが立ち上がってくるのです。

この過程は、別の切り口から見ると、親と分離していく時期であるとも言えるのです。どの子供も、分離などしたくもないのに、成長と共に仕方なく、また残念ながらも、ここに「私」がいるということを受け容れてしまうのです。

これが自我(エゴ)の始まりですね。あなたは、「自分とは身体だ」と言えるでしょうか?その表現に違和感がないのであれば、まだ身体との同化が強く残っているということです。

同化が薄れていれば、「これは自分の身体だ」という方が自然な感じがするはずです。この身体との同化の深度は、きっと人によってかなりの違いがあるように思います。

けれども、一方マインド(思考)との同化についてはどうかと言えば、それはもうほとんど100%の人たちが完全に同化していると断言できます。

ただし、その中でも何となく意識と思考の区別ができているような感じがするのであれば、思考との同化は減ってきていると言ってもいいかもしれません。

やってきては去っていく思考とは、ちょうど青空の中にやってきては去っていく、幾層もの雲と同じようなものだと考えることができますね

そして、思考という雲のバックグラウンドこそが、意識という青空であると考えればいいのです。そして、思考との同化が減ってくると、自分の本性とはこの純粋な意識なのだと分かるようになるはずです。

青空が永遠に続くように、あなたという意識は生まれることも死ぬこともありませんし、青空のように無限の大きさなのです。そのことは、同化がなくなったときに当然のこととして気づくことになるのです。

知性を超える生の神秘

この広大無辺な宇宙に思いを馳せるとき、きっとどこかに我々人類のような知的生命体がいるに違いない、あるいはいて欲しいと誰もが考えるものですね。

そうした気持ちが、宇宙人やUFOの存在への興味となって現れてくるのも当然のことだと思います。ところで、この知的生命体とは、一体何を指しているのでしょうか?

たとえば人類は、宇宙の年齢から比べれば、ほんの一瞬としかいいようのない、ほんの短い期間に、宇宙は約137億年前にビッグバンによって生まれた、ということを発見してしまいました。

これは、ある意味奇跡と言ってもいいと思うのです。こうした奇跡的なことを起こすことができたのも、我々知的生命体がいたからだというわけです。

もしも地球上に人類が登場していなければ、地球はそれこそ自然のままの姿を永遠に続けることしかできなかったはずだということです。そこには、我々のような知性というものがないからです。

でも待ってください。こうした知性を備えた人類のような知的生命体が出現したのは、なぜなのでしょうか?単なる自然界の進化による偶然の成せるワザなのでしょうか?

私自身、長い間自然界とは知性のかけらもないのだけれど、それなりに長い時間を費やすことであらゆる可能性が起きるのであって、知性もその一つの結果に過ぎないとどこかで思っていたのです。

けれども、今ではそれには無理があるように感じるのです。この宇宙、この生というものは実は我々の知性そのものを遥かに超越したものではないかということです。

それは、けっして私たちが誇る知性では解明することができないものなのです。生とは神秘であって、解明する対象ではないということです。

科学はそれを知性によって解明しようと努力を続けているのですが、生の神秘はけっして科学には触れることすらできないものだと感じるのです。

この生の神秘とは、あなたの本質のことでもあるのです。知性を遥かに超えたあなたの本質とは?少しでも生きている間にその神秘に触れたいと思わずにいられません。

三つの「グナ」の話し

「グナ」とは聞き慣れない言葉だと思いますが、それは、人間の人格を形成している三つの基本的資質のことを言うのだそうです。

インドのクリシュナは、バガヴァッド・ギータの中でそれについて解説しているのですが…。

-タマス・グナを持った人間は、非活動的、惰性、怠惰を示す。

-ラジャス・グナを持った人間は、強烈な活動あるいは情熱を示す。

-サットヴァ・グナを持った人間は、平静さや穏やかさ、知恵といった質を現わす。

一般的に、この三つのグナはすべて、あらゆる人間の中に違った割合で存在しているのだそうで。それぞれの人の中のこれら三つのグナの混合がその人の人格を形成しているということ。

ある人の中で、一つのグナがどんなに支配的であろうと、他の二つのグナはたとえ休眠状態にせよ、かならずそこにあるとのことです。

あなたのグナはどんな混合の割合になっているか、しばらく自分の内側を見つめてみるといいかもしれません。三つのグナがバランスよく備わっている人もいるでしょうし、どれか一つが突出している人もいるはずです。

私は、この情報を知ったときに、瞬時に自分はタマスが超優先していると分かりました。サットヴァもそこそこですが、ラジャスがほとんど見当たらないという、極端なタイプです。

私を簡単に形容するとすれば、非活動的であって非情熱的ということで、タマスとラジャスの割合が極端に異なっているということです。

だから、子供のころからじっとしていることが多かったし、外出というものに生涯にわたって興味がないのです。何かを自分から働きかけるというのが、とても苦手なのも納得しました。

もしかすると、こうした傾向が強いからこそ、瞑想などに興味を持ったのかもしれません。逆にラジャスが優勢で活動的な人に、自分と同じように瞑想を進めるのはいかがなものかと思い知りました。

誰もが自分の持って生まれた資質を知っておくのは、無理のない自分に適した生き方をする上でも、とても大切なことなのかもしれませんね。

エゴだけが唯一の問題

世界中で、毎日様々なことが起きていて、その中にはとても悲しむべきこととか、理不尽過ぎてハラワタが煮えくり返るようなこと、無数の争いによる悲惨なことなどが氾濫しています。

自分の身の周りに直接起きることが、それほど大した問題がないというだけで、ちょっと安心しているに過ぎません。明日はどうなるのか、分かったものではないのです。

つまり、この世界は問題だらけなのです。こうした現状を眼を覆わずにすべてを見るなら、未来に大変な不安を感じてしまうのも当然かもしれません。

けれども、実はこの世界には、ほんの一つの問題しかありませんし、それも実際には幻想のような思い込みに過ぎないのです。

その唯一の問題とは、私たち一人ひとりの中にあると想定されるエゴなのです。エゴだけが問題であって、それ以外の問題は何もありはしないのです。

エゴは問題視する専門家なのです。エゴが見れば、そこには無数の問題が散らばっているように見えてしまうということです。エゴを除いて、この宇宙には何一つ問題はないと言えるのです。

残酷なこと、悲惨なこと、理不尽なこと、こうしたことのすべては、エゴの解釈によってあたかも実在するように感じられるということです。

もしもあなたが、誰かに理不尽な振る舞いをされたとしたら、あなたは怒るか落ち込むか、あるいは悲しくなってしまうかもしれません。けれども、理不尽さはあなたの外側にあるわけではないのです。

理不尽な振る舞いという現象が外にあるのではなく、誰かの振る舞いを知覚したあなたのエゴが、それを自分にとって理不尽なことだと判断することによって、あなたの心が傷つけられることになったのです。

あなたの心を傷つけたのは、他でもないあなたのエゴの判断によるものなのです。あなたを傷つけるのは、あなたのマインドの中の思考なのです。

無思考の状態に入れば、そこにはどんな問題も存在することはできなくなるのです。ただ在るがまま、ただ起きることが起きているだけだからです。

こんな表を書いてみた

今日、セッションの前に静かにしていたとき、何となくホワイトボードに以下のような表を書いてみました。エゴというのは、どんなものでも理解しようとしてしまうのですね。

だから、これも方便だと思って見て欲しいのですが、それでも少しは何かの役に立つかもしれないので、ふわっとした見方で見て下さいね。

私たちにとって、もっとも深くくつろぐことができ、気持ちよくリフレッシュができるのは、完全に熟睡した後ですね。なぜなら、そのときには、思考がなく、つまり自分というエゴが完全に停止状態にあるからです。

エゴがなければ、緊張は皆無となるのです。エゴは、必ず緊張を携えて生きているのですから。ところが、熟睡状態では、残念ながら無意識となっているために、リアルタイムにその寛ぎを感じることができないのです。

その一方で、目が覚めるとすぐに思考が活動を始めてしまうので、その深いくつろぎはあっという間になくなってしまうというのが現状なのです。

つまり、健康的な人というのは、目覚めている(意識あり、思考あり)  ←→ 寝ている(意識なし、思考なし) の変移を昼夜を通して、繰り返しているのです。

それでもそれはいい方で、いつも考えるクセがついてしまっている人は、意識がなくなる睡眠状態であっても、夢という形で思考が活動を続けてしまうので、目覚めが悪くなるのです。

つまり、熟睡状態のように無思考になりながらも、しっかりと気づいている、つまり意識がある状態が保てれば素晴らしくいいわけです。それが深い瞑想というわけです。

(意識あり&思考なし)というのは、何も瞑想ばかりではなくて、何かに全身全霊で没頭しているときや、突然の驚愕などでも体験することができますし、深い愛の中へ入ったときにも起きるはずです。

意識的に無思考の中へ入っていって、戻ってこなくなった人こそ、光明を得た人なのでしょうね。一度そうなると、今度は思考もツールとして使うことができるようになるので、外側からは一般人との見分けがつかないかもしれません。

 

 

問題を問題視することこそが問題だ

日々のクライアントさんとのセッションで、私は最近特にほとんど何も気にせずに、大抵は言いたいことを言っていると思います。

クライアントさんの中には、10代、あるいは20代の人も沢山いらっしゃいます。もしも、20代の自分が今の自分のセッションを受けたらどう感じるのだろうかと、いつも思っています。

通常の癒しの内容でしたらまだしも、我々の本質についての話などは、もしもその頃の自分が聞いたとしたら、きっと面喰うことになったはずです。

このオジサンは一体まことしやかに何を言っているのだろうか?こんなことを聞きに来たのではないんだけれど、この話したがりのオジサンはどういう人なのだろう?

そんな風に感じるのかもしれません。でも、実際のクライアントさんは、私の言葉の内容を自分なりに理解しているようなのです。それがすごいなと思うのです。

私の言葉の一つひとつは、実際私というエゴの言葉ではないと感じているので、これは決して自慢でも何でもないのですが、20代の若者が真実への言葉を受け容れることができるのです。

それは本当に素晴らしいと思うのです。真実を言葉にしようとすれば、それはあらゆる矛盾を包含することになるし、とにかく怪しい雰囲気満載なわけです。

何か問題があれば、人はそれをどうやって解決していけばいいのだろうかと考えるわけです。それが通常の思考回路です。けれども、それがそもそも間違いなのです。

その問題をなぜ自分は問題視しているのだろうか、その根っこは一体なんだろうというところを観に行くのです。その問題に対しては、直接何もしないということです。

例えばもしもあなたが、寂しくて仕方ないとするなら、セラピストの私の口からは、そこから逃げないで下さいと言う言葉が発せられることになるのです。

その寂しさがどこからくるのかを見て、またその寂しさととことんただ一緒にいることです。寂しさを何とかして解決しようとすることこそが、問題を大きくして長引かせる原因なのです、と言うのでしょうね。

そんなことは、本当に長年にわたって知りませんでした。でも今なら分かるのです。セラピストの言葉を信じるのではなく、興味があればそれを実践して自分で真偽のほどを確かめればいいのです。

もっと沢山の人にセッションにいらして欲しいと思います。勿論その目的は、あなたの真の姿に目覚めることです。それ以外に人生には何の目的もないのですから。

闘わず、防衛せず、ただ在ることに気づく

8月15日は、終戦記念日ですね。もっと正確に言えば、敗戦記念日とも言えます。あれから、69年が経ちますが、その間日本は一度も戦争を体験せずにやってきました。

それが、日本のいわゆる平和憲法のおかげだと本当に信じている人もいるかもしれません。真偽のほどは、私にとってはどうでもいいことです。

国が戦争をしなくても、私たち一人ひとりの心は、決して平和にはなっていないのですから。日本に限らず、この何千年を見ても、人類が真に平和であったことは一度もありません。

それには、はっきりとした理由があるのです。それは、私たちのマインドにいるエゴが、自分に闘うようにと働きかけ続けているからです。

そして、誰もがそのエゴの掛け声に洗脳され、巻き込まれてしまっているからです。エゴの本音はと言えば、闘って勝て、傷つかないように自分を守れ、なのです。

闘って欲しいものを手に入れること、そのときにこそ自分は幸せになることができる、そうエゴはわめき立て続けているのです。誰もが、その声の大きさと威力にやられてしまっているのです。

勿論例外もあります。それは、この世界に絶望してしまった人、何を試してみてもうまく行かずに、もうあきらめるしかないというところまで行った人。

このような人が、実は真実に気づく大チャンスを手にしているのです。エゴがあなたをリードしている限り、あなたの心に平安がやってくることは決してありません。

やれることはすべてやって、それでもうまく行かなくて、もうほとほと絶望したという人は、自分の人生の手綱を生に明け渡すことができるのです。

そうすると、あのエゴの声が静かになって、ひとりでに自分の本質と出会うことになるのです。だから、とことんエゴに乗っ取られて行くところまで行けばいいのです。

勿論それは果てしない苦しみにも遭遇せざるをません。癒しというのは、そこまで行く前にエゴのやりくちを徹底的に解明することで、その正体を見破り、自分の本質に気づくことなのです。

目覚めのコールはいつやってくる?

以前会社員だったころ、日本中のあちこちへ出張することが多かったのですが、そのときにはビジネスホテルに泊まることがほとんどでした。

みなさんは、そういうホテルのサービスにモーニングコールというのがあるのをご存じですか?ベッド脇にある装置で時間を設定しておくと、翌日の朝その時間に電話がなって、誰かの生声で起こしてくれるのです。

いつもは自分が持参した目覚まし時計で起きていたのですが、その日はなぜかモーニングコールを試してみたくなったのです。やさしい女性の声で起こされたらさぞ癒されると思ったりして…。

残念ながら、その声は女性ではなくて若いはつらつとした男性の声だったのですが、それでもしっかり訓練された丁寧な言葉遣いだったので、いい気持ちで目を覚ますことができました。

これって、委ねるということですね。自分がどんなに眠かろうが、どれほど素晴らしい夢を見ていようと、とにかく目を覚ましてもらうように依頼するのですから、ある種の明け渡しです。

本当はそのときに、自分はまだ目を覚ましたくなかったかもしれませんが、とにかく相手に明け渡したのですから、そこで覚醒することができるのです。

これがもしも、自分だけの決意だったなら、本当に起きれたかどうか疑問です。まだ眠りを貪っていたい、この夢の中で幸福を味わっていたいと思ったかもしれないからです。

この人生においての導師と弟子の関係もそのようなものなのかもしれません。弟子は、導師に完全に自分を明け渡すのですから。

そして、導師は弟子の状態を深く洞察することで最良の刺激を与えてくれるのです。弟子のエゴがどれほど夢から醒めることを拒否したとしても、導師は弟子に目覚めの一撃を与えてくれるのです。

だれもがいつかは、そうした目覚めのコールをかけてもらう時がやってくると思うのです。それまで、何もせずにいるのか、それとも目覚める準備を自分なりに進めるのかは、自分次第ですね。

あなたの本質は空虚であり全体なのです

以前瞑想中に、自分という人物像についてのイメージをめぐらしていたときに、その像の背中の当たりを指でデコピンするような感じで弾いてみたら、パラパラと跡形もなく崩れ落ちたのを見たことがありました。

そのときに初めて、ああ、自分というのは単なるイメージ、像なのだなとはっきり思ったのです。だからこそ、人物像というわけです。そこに実体はないのです。

けれでも私たちは、どうしても自分という存在がここにいると感じてしまうのです。感じるからこそ、ちゃんとした実体があるに違いないとも信じるのです。

マインドは何からできているのかということを見てみると、雲のように来ては去っていく沢山の思考群と、その思考によって生み出された感情、そしておびただしい量の記憶から成り立っていることが分かります。

たとえば、今日の記憶とはどういうものかというと、昨日までの記憶の中にある自己像が体験した事実、思考、感情などで出来上がっているのです。

つまり、私たちは、記憶の中でだけは自己が益々体験を増やして肥えて行くわけです。けれども、それは実は記憶の中での話しであって、本当は毎日が新鮮な新しい体験者と体験で出来ているのです。

エゴはとにかく蓄積していくのです。蓄積して蓄積して、もうどれだけの生を超えて蓄積してきたことでしょう。その集大成が今のあなたのエゴなのです。

でも、心静かに自分に意識を向けてあげれば分かることですが、自分の内側はスカスカです。空虚そのものです。膨大な記憶も一過性の思考や感情も、勿論自分自身ではないと分かります。

そのどれでもないもの、それこそは時間と空間を超えて在るもの。それが純粋な意識であるあなたの本質なのです。それは全くの空虚であると同時に全体でもあるのです。

自分が溶けて消えていく

あなたのエゴは、いつも自分という存在を明確にしたいと望んでいます。常に、自分はここにいるという現実の中で生きて行かなければならないのです。

そう頑張っている本当の理由は、エゴとは思考による作り物だからです。だからこそ、エゴはあなたに闘いなさい、闘って欲しいもの、必要なものを手に入れるように急き立てるのです。

そうやって希望が叶えば、あなたは幸せになれると洗脳してくるのです。私たちは、幼いころからそのエゴの声に圧倒されながら、闘いと防衛の日々を生きてきてしまったのです。

それはエゴにとっては好都合ですが、あなたにとってはひどい仕打ちだったのです。あなたが感じるあらゆる苦しみは、エゴがそそのかすその生き方にあったのです。

そこから抜け出すためには、エゴがあまり好まないことを工夫してみるのが効果的です。たとえば、日常的なあらゆる場面で、「自分が溶けて消えていく」イメージを作るのです。

気持ちのいい朝の空気の中を歩いているなら、その空気の中にあたかも自分が消えていくように感じてみるのです。自分の身体が大気中に溶け出して、次第に薄れていくさまを感じるのです。

元々、あなたの身体を構成している原子は、外側にある大気やこの世界を作り出している原子と何も変わらないのですから、外の世界とあなたの身体の境界というのは、本当はありはしないのです。

あるいは、心静かに目を閉じて瞑想しているのなら、その果てしのない闇に包まれて安らぎながら、やはりその闇の中へとあなたそのものが溶けて消えていくのをイメージするのです。

こうしたことを繰り返しているうちに、時々本当に自分がいるのかいないのかが曖昧な感覚になり、それは至福感となってやってくることにもなるのです。

自分がいない、つまりエゴがないということは、何と清々しい爽快感なのでしょう。その至福感は、自分が溶けて消えていくイメージとともにやってきてくれますよ。

その感覚は、エゴの好きな達成感のようなものとは、本質的に異なるものです。達成感はやってきたとしても、一瞬のうちに過ぎ去ってしまいます。

この至福感は、気持ちの高揚のようなものではないので、低く静かにただ在る感覚なのです。