「私がいる」という思考

心のなかに何かがあるということは、光明を得ていないということだ。心のなかになにもないことが<光明>を得ることだ。心のなかに光明があるなら、あなたはまだ光明を得ていない。心のなかになにもないことが<光明>を得ていることだ。それを憶えておきなさい。

by osho

つまり、<光明>を得るという言葉は方便に過ぎないということです。心のなかに何もないときに、何かを得るなどということはできないのですから。

<光明>を得たい、つまり覚醒したいというのがれっきとした一つの欲望であることは間違いないことです。

内面にどんな種類の欲望もなくなってしまったとき、初めて<光明>を得た状態になるということですね。

欲望がないということは、欲望なしには存続できないマインドが消えてしまったということなので、一般的には想像もつきません。

もう少し正確に言えば、マインドの奥底にしっかりと根付いている「私」という思考、その思考をつかわなくなることです。

たったそれだけで、欲望は消えてしまうはずなのです。なぜなら、欲望は分離した「私という自己」という思考から派生して作られる思考だから。

思考が別の思考を作り出すという無限の連鎖によって、マインドは営まれているのです。だからマインドという実態はないのです。

自分はどんな欲望を持っているのか、深く探ってみることは無駄ではないと思います。その要望の真下に「私がいる」という思考が隠されているのですから。